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曽野綾子『自分の始末』「砂漠・この神の 土地 サハラ縦断記」

熱帯雨林には、生きているものの声がある。

いや、声に満ちている。

砂漠と違って、そこには他者がある。

だから、私は孤独を感じたのである。


砂漠には他者がないから、不思議と孤独ではないのだ。

砂漠では

遠く離れている者も、私に思いの中で近づき、

神も、わたし自身の心も

恥ずかしげもなく、天地に充ちる。


しかし、

熱帯雨林では、

心に懸かる人は遠くにあり、私は小さく独りである。

自分以外の他者がいることで

人は孤独を感じるという。

熱帯雨林に多くの生き物を感じると

自分は独りとなる。


多くの人の中にいる時の方が

孤独を感じると同じということだろうか。


認識できないほどの人数となると

一人ひとりの存在はただの数となる。

そこにあるのは孤独と

そして

見えてくる

自由。


砂漠では他者がいないから

自分と天地との

区別がなくなる。


砂漠で神に出会うとは

そういうことなのだろうか。


そして

思いは遥か彼方まで一瞬で繋がり

天地に充ちる。


はたまた

熱帯雨林では

多くのものに埋もれてしまい

自分は小さく独りとなる。


ふと、私は気が楽になる。


この森の片隅に立つと、

「憎んで生きるのも、愛して生きるのも同じ」と思える。

それは「憎まれて生きるのも、愛されて生きるのも同じ」

ということなのかとおかしくなる。

憎むことも愛することも

深く人を思う点においては

同じなのだ。


人は

簡単に

愛することと憎むことを反転する。


深く愛しているがゆえに

深く憎む。


そう考えると

「憎んで生きるのも、愛して生きるのも同じ」であり

「憎まれて生きるのも、愛されて生きるのも同じ」となる。


深く憎むことは

深く愛したこととなり


深く憎まれたことは

それは

深く愛されたということだ。


どっちでも同じということは

どっちでもいいということ。


愛の本当の反対は

無関心だからだ。

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