聖書「ぶどう園の労働者」すべての人が救われる
「天の国は次のようにたとえられる。
ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために
夜明けに出かけて行った。
主人は一日につきデナリオン銀貨一枚の約束で
労働者をぶどう園に送った。」
・・・
(要約)
(九時ごろにも労働者をぶどう園に送り
十二時ごろ
三時ごろ
五時ごろにも送った。
・・・
そして賃金を支払う順番を最後に来た人から 始めて
五時ごろ来た労働者に対して、銀貨一枚を支払った。
最初に雇われた人は、もっと多くもらえると思っていたが
やはり銀貨一枚であった。
受け取る時に、最初の労働者が主人に不平を言った。
けれども、主人は初めに約束していた金額を支払っているので、不当なことはしていないと退けた。
自分のお金の使い方、支払い方を、自分のしたいようにしていけないのか。)
ということが書いてある。
つまり、多くの労働をした人と少ない労働をした人に対する賃金が
同じであるのは
多くの労働をした人にとっては
納得がいかないということ。
しかし、賃金を支払う主人は
自分のお金を
自分のしたいように支払うことに
何の問題があるのかということ。
しかも、初めの多くの時間を働いた労働者とは
一日デナリオン銀貨一枚という契約をしているので
何の問題もないはずだという。
この二つの視点の問題において
どちらの考え方にも一理あるとも言える。
しかし、一日デナリオン銀貨一枚と契約をしているのは事実であるので
労働時間が長いからといって
賃金が増えるわけではないと理解できる。
労働時間が短い人に対しても
デナリオン銀貨一枚が支払われたのが
納得できないということだ。
その当時の家族の一日分の生活費として
デナリオン銀貨一枚が
必要であるということから
主人は人情的に
短い労働時間の人にも
同じ金額を支払ったのであろうと考える。
ここから見えてくるのは
初めの言葉の「天の国のたとえ」から
信仰が長く深い人でも
信仰が短く浅い人でも
天の国が開かれているということ。
つまり
すべての信仰のある人を
神は
天の国に招き入れるということ。
すべての人を救うということ。
おそらく
最期に
神頼みをしても
救われる。
聖書には
やはりすごいことが
書いてある。