曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「死者の声」
どのような人でもその死にあたって残せるものが確実にある、と私は信じている。
それは、死後、残された人々が、自分はどのように生きたらいいかと不安に陥る時、死者の声として聞こえてくるものである。
死に当たって
毅然と
そして
自然に死んでいくことができるということが、
死んでいくものが
残されるものへ見せることができる任務だと思う。
死においては
機能が徐々になくなっていくのだから
おそらくは
自分も自然に
死ぬことができるのだと思う。
それが救いだ。
通常、善意に包まれて命を終える死者が残した家族に望むことは、健康で仕事にも励み、温かい家庭生活を継続することだろう。
温かい家族とは自然にできるものではない。
家族の一人ひとりが
気遣い合い、努力し、許し合わなければ
できるのものではない。
できているだろうか。
私の家族の一部はそれができないので
その一部とは
距離を置いている。
仕方がないと思っている。
私と共にいる家族は
お互いに支え合うことができている。
そして温かい家族でいようと
これからも
許し合い、努力する。
死者が残していく家族に望むことは「皆が幸せに」という平凡なことである。
だから、私たちは常の死者の声を聴くことができる。死者が、まだ生きている自分に何を望んでいるか、ということは、声がなくても常に語りかけている。
おそらくその声は「生き続けなさい」ということなのだ。
自殺もいけない。
自暴自棄もいけない。
恨みの怒りも美しくない。
人が死ぬということは自然の変化に従うことだ。
だから生きている人も、以前と同じような日々の生活の中で、できれば折り目正しく、ささやかな向上さえも目指して生き続けることが望まれているのだ。
その死者が私たちのうちに生き続け、かつ語りかけている言葉と任務を、私たちは聞きのがしてはならないだろう。
私の父親は愛情深い人であったが
自己中心的な人でもあった。
私につらく当たるのは
私を信頼していたからなのか。
私しか当たる人がいなかったのか。
そう思うしかない。
だから
死者が私に残したものは
あんな風にはならないようにしたいということだ。
反面教師なのだ。
けれども
それでも十分に
人生の生き方を
教えてくれたとも言えるのだ。
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