曽野綾子『魂の自由人』「マムレの樫の木の下で」
聖書の創世記18章1~10節より
「〔その日〕主はマムレの樫の木の下でアブラハムに現れた。暑い真昼にアブラハムは天幕の入り口に座っていた。」
神がアブラハムのところに現れた。
アブラハムと言えば、ユダヤ人の祖を言われる人で、そしてマムレというのは、今の国名で言うとイスラエルの、エルサレムの南三十キロほどのところにある村だという。
今でもそこは鄙びた寒村だろうから、当時はオアシスか井戸があるだけの時の止まったような村であったろう。
樫の木があるということはそれだけでも、その土地が、周辺では水のあるいい土地だということを暗示していると思われる。
「天幕の入り口に座る」ということは、新聞を読み、テレビを見、ラジオを聞くのと同じような知識の吸収法であった。
狭い村にいて、俗に当時、百歳と言われるほどの高齢者であったアブラハムが決して精神の活動力を失った老いぼれでなかったことが、この僅か数行の描写で生き生きとあらわされている。
「目を上げてみると、三人の人が彼に向って立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。『お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください。水を少々もって来させますから、足を洗って、木陰でどうぞ一休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。』その人たちは言った。『では、お言葉とおりにしましょう。』」
そして、アブラハムは二人の客人に、上等の小麦粉からパンと菓子を作り、牛の群れの中で上等の子牛を屠ってご馳走したのだ。
アブラハムは決して大きな顔をして主人の席に着くこともなく、自らへりくだって、客人の傍らに立って給仕をしたという。
それから、客人たちは『あなたの妻のサラはどこにいますか。』『はい、天幕の中ににいます』と答えると、彼らのひとりが言った。『私は来年の今ごろ、ここに来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。』」
何をたわけたことを言っている、とアブラハムはその時思っただろう。
百歳と九十歳の夫婦に子供ができるわけがない。
ましてや昔からサラは石女(うまずめ)ということになっている。
(表現が今にしては問題があるけれども、聖書の時代の考え方。)
そのため、アブラハムにはハガルというつかえめとの間にイシュマエルという子がいた。
この出来ごとの後で、サラは本当に妊娠し、神の約束の子、イサクが生まれる。
そしてこの大切な大切な子をアブラハムが燔祭(はんさい)の生贄(いけにえ)として捧げようとする話が続くのである。
ここで曽野綾子は、
アブラハムは権力者であったが、
その権力者が自分のしたいようにふるまうことに
注目しているというのだ。
権力者ほど自由はないという。多くの損得勘定が働き、縛られた考え方となっているという。
権力を持ったことがないのでよくは分からないけれども
損失回避の思考となっている権力者が多くいることは理解できる。
私がいつも不思議に思うのは、金銭的な利益を相手に与えることで「人脈を作っておこう」と考える人がいることである。
金を出すことで作れるのは「金脈」だけである。
人脈はそんなことでは決してできない。
皮肉なことに人脈は、
それを仕事に使おうとしたら、ただちに消えてなくなる。
アブラハムは見返りを求めることなく旅人に最上のおもてなしをしている。
いずれにせよ、このマムレの樫の木の下での光景は比類なく鮮やかである。幸福の光は強く、慎ましいアブラハムの挙動は影として濃く鮮やかだ。
生の躍動が風となって吹き通っている。
それはアブラハムの魂が、人間として自由だったからだ。
私たちはいつも自由を叫び、荒野の遊牧民より自由に暮らしているように見えるが、魂は往々にして囚われていて自由ではないのである。
何かをする際において
自分にとって得になるようにと考えることが
逆に働いて
自分の得にはならなくなる。
そんなことが実際に起きているのだろう。
得なるかもしれないと考えての人間関係は
ギクシャクしており
その関係も長続きはしない。
お互いに支え合うような関係が必要なのだ。
ギブギブギブと与えるだけでは
気持ちからして持たない。
モノだけではないものが重要なのだ。
愛情、友情、尊敬などの気持ちがないと
人間関係は続かない。
その人間関係に必要なのが
損得にとらわれない
魂が自由であることなのだ。
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