曽野綾子『私の中の聖書』の「報いられぬ死」
旧約聖書のヨブ記
義人のヨブが神と悪魔のために
過酷な運命に翻弄されながらも
神への愛を貫くという話。
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テッド・チャンは
『地獄とは神の不在なり』での「作品覚え書き」の中で
ヨブ記についての自分の考えを書いている。
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ヨブは義人として試されるために
家畜などの財産を奪われ
息子や娘も大嵐のために亡くした。
ヨブ記では
「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
そして言った。
『私は裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。』
すべての事においてヨブは罪を犯さず、
また神に向かって愚かなことを言わなかった』(1・20~22)
悪魔は、さらにヨブは足の裏から頭の先まで、腫瘍に悩むようにした。
ヨブの友人たちが来て、
ヨブがひどい罪を犯しているから、
こんなに苦しめられるのだと問い詰めた。
また妻や友人たちは、罪は犯していないというヨブに対して、神を呪うように言う。
最後には神がヨブの忠実さ、義を認めて再び多くの家畜や子どもを得るという形で終わる。
ヨブは140歳まで生きながらえたという。
勧善懲悪の形となって私たちを安心させる。
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しかし
旧約聖書の原本では
このような終わり方ではなく
最後までヨブの義が報われないという形であったという。
人間は報われないからこそ
人生についてよく考えるようになるというのだ。
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良いことをすると必ずそれが報われるとなると
報われるから良いことをするようになるというのだ。
必ず報われることはなくても
良いことを良いと自認して行う。
つまり
目的は報われることではない時に
人間は人間となるというのだ。
それが人間の精神の崇高さを保つことになる。
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そのためにはヨブは
過酷な運命を受け入れ
そして
決して
神に報われることなく
ひたすら誠実に神を信じて
義を貫き通すことが必要となる。
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『地獄は神の不在なり』の主人公のニールが天国の光を見たために
神を愛さなければならない理由を知り
自分の境遇がどんなに苦しいものであったとしても
神を愛し続けてゆく。
それが彼ができる唯一の事。
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ヨブに重なるところ。
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深い信仰とはそういうものなのだろうか。
愛されなくても愛すとは
それほど強いものだろう。
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超越した信仰
超越した愛
そこには
強力で狂気的な力がある。