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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「微笑んでいる死」

2010年の9月6日の毎日新聞の小林洋子さんの「マングローブの黄色い葉」というエッセイから

マングローブは、「海水が混じる水域に生育するので、塩分を根の細胞膜でろ過する。

それでも吸い上げてしまった塩分を、木は生きていくために、特定の葉に集める。

塩が十分にたまるとその葉は黄色くなり、やがてポロリと水面に落ちていく。
せつないではないか。

選ばれるのは古い葉なのであろう。

塩分を一身にため、
木や他の葉たちを守るために落ちていく老兵を思い、
涙する」

貴重な木なのだ。

・・・

トルコの巨大なアタチュルクダムで

次第にガムの水位が下がっていると聞いた時

とにかく蒸発を抑えるために

ダムに蓋をすることまでもなく

周辺に木を植えることが効果的だということだった。


木を植えることがダムの蒸発を防ぐことになる。


・・・

アフリカにおいて年中カンカン照りで降水量が少なく、作物が作れない。

そこで農業用水を作ればいいではないかと言ったところ、水溜まりを作るとそこに塩が集まって周囲の土地まで使えなくなるという。

安易に農業用水を作ることで却って塩害をもたらし、周囲の土地までだめにしてしまう。

・・・

日本の水田は毎年毎年水で洗い流しているから稲を作ることができるという。


塩の強い荒れ地に植えられる木が

マングローブなのである。

・・・

紅葉すると言えばモミジ

モミジは、ほとんど整枝というものの必要のない植物だが、もしどうしても切りたいという時には、決して鋏を使ってはいけないよ、と私は教えられていた。

普通木の枝というものは、完全に枯れていれば別だが、生乾きの時でも簡単に手では折れない。

しかしモミジに限って、木は自分で不必要な枝だと思えば、風で自然に折れるようになっているというのだ。
モミジはもっともっと、潔い生き方をしている植物なのであった。

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化学肥料と農薬では、土地の力が死に絶えることが分かった。

そこで有機肥料の登場である。

昔は人糞を使ってもいた。

そのため病気になることもあった。

曽野綾子さんの通っていた学校では畑に牛糞や鶏糞が肥料だった。

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自然界の中でも

カマキリの雄は交尾の直後に雌に食べられる。


アリもハチも自分の巣を守るために

果敢に戦いそして死んで行く。

・・・

命は誰かが死ななければ生きないのである。
私たちの生涯もそれに似ている。

人間の運命は、自分が死ぬからこそ、誰かが生きられる、というわけではない。

しかし最近、私は時々、私は死ななければならない。

私には死ぬという任務がある、と思うようになった。
すべての事象と物に、新旧命の交代という力が働く。

モミジの気が自分で要らない枝を風の力で払うように、地球上では、老いと古びたものが、新しい命に席を譲る。

それが自然なのである。
死はだから、無為ではない。

・・・

ゴッホの晩年の作である「刈り入れ」という作品で、麦も麦畑も太陽もすべて金色の絵の具でごってりと塗りつぶした。

そしてサン・ルミーの精神病院の病室から死の前年、弟テオに書き送っている。
「刈り入れは麦にとって死だ。しかしこの死は悲しいものではない。

万物を純金の光で照らす太陽とともに進んでゆくのだ。

僕が描こうとしたのは、

『このほとんど微笑(presque  souriante)している死』だ。

そして人間もまた、この麦のようなものかもしれない」

与えることができるという意味での

微笑している死。

そこには

ゴッホの描いた黄金に染まった輝かしい光が見える。

すべてが光とともに黄金に輝く。

満ち足りた光の中の死。

もし麦が充実していたら、それは命の終わりではなく、形を変えた継続になるのである。

とすると、私たちの死後の意味を支配するのは、生の充実にあると言わなければならない。
死後、人の命は誰かの命に移行するのだから、生前から人は、利己主義であってはならないだろう。

受けることばかり、得になることばかりを計算する人ではなく、多く与えることのできる人になるのはどうしたらいいか、自分を練る他はないのだ。

どう死ぬのかは


どう生きるのか

どう生きたのか

ということになる。

・・・

限りなく同じような人として生きる運命を認めた上で、しかし、そこにいささかの違いを作ることは可能かもしれない。
一日一日をどう生きるかは人によって違う。

憎しみや恨みの感情をかき立てて生きる人と、一日を歓びで生きる人とは、同じ升の入れられる時間でも、質において大きな違いが出てくるだろう。

どんな状況の中でも

与えられた命と時間に感謝することができれば

もうそれ以上のことはなくなる。

自分のことだけで一日を終わる人は、寂しい。

しかし他者の存在を重く感じ、その幸福をも願う人は、死者さえも交流の輪に加わっていることになる。

自分も他人も同じように

幸せに生きることができるように

祈る。

そう思ってみると、死はそれほど恐ろしいものではない。

死を恐れるのは、死を前に何もしなかった人なのだろう、ということになる。
インドのイエズス会の修道者だった故A・デ・メロ神父はこう書いた、という。
「精いっぱい生きる日が
もう一日与えられていることは
何と幸せなことだろう」
それ以上の計算は人間には必要ない。
病んでいる人は病んでいるままに、悲しんでいる人は悲しんでいるままに、今日を精一杯生きるだけなのである。

生きていることは

素晴らしい。


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