サマセット・モーム『サミング・アップ』(人生設計、寛大さ)
大抵の人は、運命の風の吹くままに行き当たりばったりの生活をしている。大多数の人々は、
生まれた環境のためと生活費を稼ぐ必要とから、
真っ直ぐな狭い一本の決まった道のりを歩むしかなく、
右にも左にも曲がるのは不可能であろう。
こういう人たちは
人生設計を決められてしまっていて自由がない。
人生自体が設計を押しつけるのだ。
こういう設計が、
誰かが自分で描こうとした設計図と同じように
完全でないという理由はないと思う。
だが、
芸術家は
特権的な立場に立つのだ。
芸術家をいう語を使ったが、
芸術家の作り出すものに価値があると思うからではなく、
芸術に関係する人を指すだけのことである。
もっといい言葉があればよいのにと思う。
創造者という語を用いるのは大仰だし、
それに、
作品がめったにない独創性を持っていると主張しているように聞こえる。
職人という語では足りない。
大工は
職人であり、狭い意味では芸術家であるが、
通常大工は、
どんな無能な文士でも、
どんな貧しい絵描きでも持っている
行動の自由を持たないからである。
その点、
芸術家は、
自分の人生をある程度までは好きなように送れる。
人生のリハーサルはないものだから
人生をある程度行き当たりばったりに生きてしまうのは
仕方がないことだ。
その中でも
芸術家と呼ばれる人たちは
行動の自由があり
自分の人生設計を自由に生きることができるという。
職業によって
人生が制限され規定されてしまうことが
多いというのだ。
自由の代償は
生活の不安定さがセットとしてあるけれども。
それでも
自由という響きには
魅力がある。
・・・
私はこれまでたくさんの誤りを犯してしてきた。
時には、
特に作家の陥りがちな罠にはまったこともあった。
自分の創作した作中人物にさせた行為を
自分の実生活で実行しようと試みたのである。
自分本来の性質に無縁なことを試み、
虚栄心で失敗したと認めたくないので、
いつまでも固執していたこともある。
他人の意見に過度に注意を払い過ぎたこともある。
無価値な相手に対して、
苦痛を与える勇気がないものだから、
犠牲を払ったこともある。
愚かしいことをした。
私は良心が過敏なせいか、
過去にやったことを
未だに完全には忘れられないことがいくつかある。
自分で自分の行動を規制してしまっていることが
多くある。
役割を演じるということから自由になると
日常の生活が難しくなる場合もある。
母親、妻あるいは
父親、夫という役割を終了させると
自由となるのかもしれない。
未だに原始的な生活をしている民族では
女性が閉経すると
男たちの中に入って
同じように座り
同じようにタバコを吸うことができるという。
子どもを産むということからの役割が終了し
解放されたとも言える。
・・・
その一方、
自分のこういう誤りのお陰で、
他者への寛大さを覚えたのであるから、
誤りを後悔してはいない。
寛大になるのは時間がかかった。
若い頃はひどく不寛容だった。
誰かが
偽善は
悪徳が美徳に呈する賛辞だ、
というのを聞いて
ーこの見解は私は知らなかったが、その人が初めて述べたのではないー
ひどく腹が立ったのを覚えている。
悪徳を行うなら、
堂々と自信をもってやるべきだ、
と思ったのだ。
私は誠実、高潔、正直についての理想を持っていた。
人間の弱さに対してではなく、
臆病に対して我慢が出来なかった。
だから、
言い訳で誤魔化す連中には容赦しなかった。
寛大さを
他の誰よりも必要としていたのは、
この私だということに
気付かなかったのだ。
たくさん間違いをして
人からそれを許されたことから
自分も人の間違いに対して寛大になることができる。
そうなると
間違えない能力の高い人は
人として成熟することが遅れるのかもしれない。
私も言い訳をして誤魔化すことに対しては
これまで容赦しなかった。
けれども
今となっては
誤魔化さなければならないほどの
事情があったのかもしれない、
とも考えられるようになってきた。
少しは
寛大さを学べたのだろうか。
強い関心ごとが
無くなってきたせいもある。
年を取るとは
こういうことなのだろう。
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