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エリザベス・キューブラー・ロス『死、それは成長の最終段階』「総括編集者(ジョセフ・L・ブラガ、ローリー・D・ブラガ)による序文」(「生きる」ということ)

若くして死を迎えるか、年齢を重ねてから死を迎えるかといったことよりも、これまでの年月を充実して生きてきたかどうかの方がずっと重要な問題だ。
十八年間の人生で、八十歳まで生きた人よりももっと充実して生きることだって可能だ。
充実して生きるということは、躍起になってできるだけ多くの経験を重ねることではない。
むしろ毎日を、この日一日しかないという気持ちで生きることであり、
人生に失望したり、つらいことがあったときに、
それの対処できるだけの心の安らぎと強さを見つけることだ。
また、それと同時に、
人生の喜びや楽しみをもっと身近なものにし、そういうものを増やして維持していく手段を見つける努力を続けることである。
それには、今まで気にもとめなくなっていたことに、改めて目を向ける必要がある。
たとえば、
春の新芽が芽吹くのを見つけてそれに喜びを感じたり、
朝陽や夕陽の美しさに日々驚嘆したり、
周りの人の微笑や手の温もりに心安らいだり、
子供の成長を驚きの目で見守ったり、
生に対する子どもたちの姿勢、つまり、素晴らしく「単純明快」で情熱的で疑うことを知らない姿の共感したりすることだ。
それがすなわち「生きる」ということである。
日々新たな一日を過ごせることに喜びを見出すことは、死を最終的に受け入れる準備をすることでもある。
死ぬことを怖がり、忌避する人は、本当の意味で生きてこなかった人たちだ。
つまり、
未解決の問題や果たさなかった夢、砕け散った希望などをそのままにしてきた人である。
そして、
人生にとって真に大事なこと、
すなわち人を愛し、人から愛されること、
人の幸せや福祉に積極的に貢献すること、
本当の自分らしさを見つけること
ーなどをせずに人生を過ぎしてきた人達である。

生きること、成長すること
ーそれを始めるのはいつからでも決して遅くはない。

人生を充実して生きるということは

感動することを

どれほど多く見つけられたかということだと思う。


大きなことでなくてもいい。

日常の中には様々な感動があるという。

その感動を見つけられる才能があれば

たとえ、家にずっといたとしても見つけることはできる。


自分の生きてきた人生を

そのまま肯定できる人は

死を恐れることが必要なくなる。


日々これで良し、良かったことがあったと

認めることができれば

ぞれは充実した人生ということができる。

そのためにも

「はい」には「はい」と

「いいえ」には「いいえ」と

正直に言うことが

自分の人生を生きているといえる。


それでうまくいかないのであれば

その関係は諦めてもいい。


他の道がかならずある。


そういう強さが重要なのだ。

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