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曽野綾子『生活のただ中の神』「誰もが同じような弱さともろさを持っている」

姦通罪で咎めれられた女の人を

石打の刑にする場面において


イエスは

「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、

まず、

この女に石を投げなさい」と言う。


するとこれを聞いた者は、

年長者から始まって一人、一人と

立ち去って行った。


そして

イエスひとりと真ん中にいた女が残った。


(ヨハネによる福音書8・2~11)より
人が年をとる意味は、自由な心で十分に自省的になれることにある。
自分が生きてきた長い年月の間に起きた

さまざまな人生を思うと、

人も自分も共に、

その気ではなくとも

時には悪いことをしてしまった経験を記憶している。


たいていの人は

似たような卑怯さを持っている。

無意識のうちに罪を犯してしていたかもしれないという自覚が

あるかどうか。


イエスに言われて

自分にも罪があったという自覚がある年長者から

次々にその場を立ち去ったという。


無意識の罪の自覚が

カギとなる。

あるいは

自分が目に見えた罪を犯さないで済んでいるとすれば、

それは自分が親から健康な体をもらっていたから、

耐える力を持っていたからだろう

という自覚である。

自分の力ではないものに

助けられてきたという自覚。

あるいは、

罪を犯しそうになった時、

すぐ傍に自分を助けてくれる人がいて、

それを「実行しないで済んだ」だけのことだ、

と知っているのである。

自分が人に助けられてきたという自覚。

この「罪のない人だけが糾弾していい」という条件づけは

寛大、

大人気のある複雑な考え方が可能であること、

自省的であること、

などの行為の原点になっている。


聖書が永遠の新しさと怖さを持つことは、

こんなところにも現れている。

罪がない人などいない。

だから

お互いにその罪を許し合う。


無自覚の人だけが

人を糾弾するという幼さ。


聖書は

常に新しく

そして

常に恐ろしい。

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