曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「枝垂れ梅の下で」
死は人間にとって、死刑を執行されることだ。
そう思う人が多いのは当然である。
突然死ではない限り、死は必ずいつか事前に宣告される。
最近ではがんの患者に対して、主治医が死の告知をするケースも多くなったという。
患者側サイドから見てもそうされることを望む人が増えたということだろう。
一つには人は死ぬまでにすることがある。
多くの人は、やはり気丈に自分が果たすべき役割を少しでもやり抜いて終わろうとするからである。
つまりそのために死ぬ日までの有効性ははるかに増し、日々は濃密なものになるのである。
もう一つの理由は、判断の明晰な病人に嘘をつき通すということが、看病しなければならない周囲の人にとっては大きな重荷になるからだ。
普通は一度嘘をつくと次から次へと辻褄を合わせて行かなければならなくなり、それでへとへとになる。
そしてやがては嘘がばれて、信頼関係まで失われる、ということになる。
重病人を抱えれば、家族は心理的に苦しみ続けている。
別離の予感、治療費の捻出、見舞いに行く時間のやりくり、それに伴う身心の疲労、どれをとっても大変な重圧だ。
そこへ、明るい顔で嘘までつかなければならないという義務まで生じたら、重荷はますますひどくなる。
すべての重荷は、死んでいく病人も担わなければならないものなのだ。
だから、世の中は告知の方向に向かったのだろう。
私はいい時代になったものだと、思っている。
なぜなら、
医師が告げる死は、自然現象に属する事柄なのであって、人生の計画に対してまことに自然に手を貸しているに過ぎないからだ。
・・・
かつて私が働く小さなNGOのグループは、南アフリカのヨハネスブルグにあるエイズ・ホスピスの要請で、八体の遺体を冷蔵できる霊安室を寄付したことがある。
建設費用の二百二十万円は私たちが出した。
その開所式に私は出席したのだ。
穏やかなる或る午後のことだった。
そこで働く二、三十人の職員が霊安室の前に集まった。
ほんの二、三十メートルしか離れていない午後の芝生の椅子には、数人の患者たちが座っていた。
彼らは自分の運命を知っていた。
死が近日中に訪れることを覚悟している人ばかりだった。
彼らの中には、ホスピスに丸二十四時間もいずに息を引き取る人もいた。
生と死は午後の光の中で、紙一重に不気味な親しさで隣り合っていた。
彼らが死の側におり、私が何の理由もなく、生の側にいるという無残さに、私は耐えられなかった。
そこで私たちはこの「アメイジング・グレイス」を歌ったのだ。
死んでゆく人たちも私たちもすべてが、最後の一瞬に、見捨てられていないことを実感しているからだった。
讃美歌であるこの歌は大きな慰めとなる。
「驚くべき神の恵みは、
私のような哀れな者も棄てなかった。
かつて私はさまよっていたのだが、
実は私は守られていたのだった。
私は運命に対して盲目だった。
しかし今、私にはすべてが見えている。
神の恵みは、なんと優しかったことか」
少なくとも死ぬ前に、知っておきたかったこと、会えてよかったことに多く出会えるのはいいことではないか。
だから私たちは自分で死期を早めたりしてはならないのだ。
死ぬことが分かった時
残された時間が大体分かることは
自分にとっても家族にとっても
救いとなる。
癌であると最後の時期以外には
かなり自由に過ごすこともできるという。
緩和治療も進んでいる。
・・・
すべてのことは、それを受け身で嫌々受け取るか、積極的に受け取るかで、大きく意味も変わって来る。
もし死を、理性ある人の自ら納得した始末だというふうに受け取れば、そこには明るい陽射しが見えて来るのだ。
それを納得させてくれる光景を、自然はどこにでも用意している。
それは家に一番近い川べりや公園でいい。
さもなければ、町中の銀杏並木でいい。
秋になると多くは紅葉し始める。
黄や赤に染まった葉は一瞬の艶やかさを見せ、やがてそれは乾いた大地の色に近づく。
瑞々しい命が遠のく様相である。
自然の中でも
様々な死があることで
命の循環ができているということに
気付くことができる。
我が家の枝垂れ梅は、毎年必ず三月五日頃、最も妖艶な華やかさを見せる。そして私が言う。
「大したもんだわ。カレンダーもないのに。どうして毎年きちんと三月五日頃になると盛りになるのかしらね。・・・」
2001年の三月五日、
この梅が満開の日に、
私たち夫妻は、
ペルーのフジモリ氏が、
亡命に後の百日間を私たちの家で過ごしてから、
新たな生活を始められるのを見送った。
その日私たちはこの枝垂れ梅の下で記念写真を撮った。
曽野綾子さんは国際的にも大きな貢献をしている。
森や並木道の木の葉が一斉に落ちるのは、死の操作ではない。
銀杏の葉が落ちることは
銀杏自体の幹が死ぬということではない。
古くなった葉を落とし
休眠状態に入ることで
次の新しい葉を作り出すことに
備えているのだ。
だから銀杏は
遥か恐竜がいた時代からずっと絶えることなく
命を繋ぐことができた。
それは生の変化に備えるためである。
それが納得できれば、自分の死も、他者のための生のために場を譲ることだと自覚できる。
自分の死が
新たな生のために必要なことだと
自覚することができれば
自分の死にも
意味があると思うことができる。
そしてその死を積極的に迎えようとする計画もできるはずなのである。
来るべき死に備えて
自分の時間を大切にし
家族とともに
できる限り
楽しく過ごしたいと思う。
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