曽野綾子『心に迫るパウロの言葉』「すべての人への贈り物」(互いに重荷を担い合いなさい)
信仰があると、重荷がなくなるのではない。
しかしそこには、
二つの結果がある。
一つは
重荷によって人間が変質することである。
病気や災難を、直面した当初から
いいものだと言える人はごく少ないであろう。
多くの人は
その運命を呪い、悲しみ、意気消沈し、死んだほうがましだと思ったりする。
しかし
たいていの人が
自殺したりすることもなく、
その運命を受け入れる。
ということは、
自殺しない限り、
必ず誰もが
それに打ち勝つ力を与えられるだけでなく、
非常に多くの場合、
その人は幸運で健康だった時より
「いい人」になっているのである。
不運を嘆き悲しみ
心が壊れそうになりながらも
それを
どうにか受け入れ
そして
立ちあがり
やり過ごすことができる時に
人は
以前よりも
良い人
強い人になって
生まれ変わる。
その時初めて
彼は、
重荷を神からの贈り物だ
と思うようになる。
その重荷には意味があったと思えるようになるのだ。
その重荷から意味を見出さずにはいられない。
そしてそのことに納得すると
もう
それにとらわれない揺るぎない力を持つようになる。
言葉を換えて言えば、
重荷を背負わされた時から、
その人は明らかに、
神と個人的な繋がりができたのである。
それを
神との繋がりと思うのが
信仰ということだろう。
・・・
しかし、
その人を完成させるために
神は
あらゆる手段を動員される。
重荷を背負わされるのではなく
自らが背負ったのだと思えるようになった時
重荷は重荷ではなくなり
自分を押しつぶす重さもなくなるのだ。
・・・
それでも重荷を背負って歩くことは辛い。
自分の重荷を
少しでも分け持ってもらえたら
元気百倍するであろう。
重荷がある時に
「重いですよね」
「大変ですよね」
「分かりますよ」
「辛いですよね」
と言われることが癒しともなることもある。
同じように思う気持ちがあることを示されたとき
人は癒されるのだろう。
また人の重荷を
手伝って持って、
それで喜んでもらえれば、
それはこちらの喜びでもある。
荷物を手伝って持とうとしない人は、
気の毒なことに、
この手に喜びを知らないままに終わる。
その重荷を一緒に背負ってくれることがあるのなら
重荷の重さは軽くなる。
そして
それだけ
それ以上に
お互いに幸せになれるのだ。
そこで二番目の結果が出て来る。
つまり
自分の重荷を担ってもらうこと、
或いは、
他人の重荷を担うことが、
どれほどの幸福を人間同士に与えるかということである。
いたわり合う気持ち
大事に思う気持ち
愛する気持ち
があれば
本当の幸せを感じることができる。
人間
動物
生物は
そういうふうにできている。
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