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日本人はシャイで奥手?

日本人はもともと性に対しては諸外国の人が驚くほど大らかそのものだった。

政治家も少子化が問題だと言うがそれは過去の政策の中で意図的に行ったことの結果が、今の少子高齢化社会と言う大きな課題を残すこととなった。

鎖国し、外交を閉ざしていた頃の日本国内では各地で混浴の銭湯が庶民の文化として根付いていた。風紀を乱すといって規制をしようとする動きもあったが、そんなことは御構い無しに地方では近年まで続いていたところもあるという。

これは男湯女湯を分けるよりも効率が良かったということもあったが、何度となく規制さの動きがあったにも関わらず、残ってきた背景には何があったのか。

6世紀半ば

仏教を聖徳太子が積極的に導入しようとした時に、国家宗教へと成長させたことと関連している。汚れを洗うことは仏に使える者の大切な仕事として沐浴の施浴が寺院に設けられたことに始まる。これは布教にも役立った。家々には浴室はなく、町湯もない。労働の後に湯に入るのは、ある意味娯楽的要素があった。それが、身を清めるというのだから庶民はありがたいと思うに違いない。

平安末期には
すでに京都に湯屋があったことが『今昔物語』も残っている。鎌倉・室町時代に入って徐々に盛んになり、「風呂ふるまい」という茶の湯や酒宴などと合わせて楽しんだ。
江戸時代には
町ごとに風呂屋があったと言われるほど銭湯が広まったが、江戸の町は水が貴重だったため蒸し風呂が多く、湯気が逃げない様に「柘榴口」という低い入り口くぐって入ると、中には「戸棚風呂」という膝下まで浸して上半身を蒸す様な造りになっていた。

江戸庶民の社交場として栄えた銭湯は、社会的身分の上下の別はなく、裸の付き合いができる場所でもあった。
江戸の街中でも上半身を露わにし身体を拭うのも、日常的に行われていた頃、男女混浴はむしろ当たり前という認識だったのだろう。
とはいえ銭湯でサービスをする湯女(ゆな)が誕生し、昼は客の背中を流し、夜は三味線を手に遊び客をもてなすなど、大活躍した。銭湯は湯気が逃げない様に狭めていた柘榴口のせいで、内部は暗く性行為までが行われていたという。風紀を正そうと『混浴禁止令」や湯女の人数制限が幕府から出されたが、『三日法度」と言われるくらい効果は無かった。

本格的に動き出したのは

ペリー提督が黒船に乗って来航した際のことは、ご存知の方も多いだろう。女性が肌を見せることはふしだらだという文化の国からしたら、なんとはしたなく、野蛮な光景に見えたことだろう。国に持ち帰り、そのことを書いたことを知った幕府が、『日本の恥』とばかりに規制に乗り出した。

天保の改革の際

厳しい取り締まりが行われ、浴槽の中央に仕切りをしたり入浴日や時間を男女で分けたり、男女のどちらかだけにするようになった。しかし、暗かった柘榴口が開放的な改良館へとさらに変化したのは、江戸時代も終わり、明治に入ってからだった。いくら規制してもいたちごっことばかりに、明治初期までは表面上の影響に止まっていた。

西洋文化が入り込み、インテリな若者文化人たちが、西洋の思想に基づいて、日本女性の行動を批判するようになり、「貞節」という思想が重んじられ、男尊女卑的な社会へと変わっていった。そして、性愛から始まっていた恋愛模様もプラトニックな清い恋愛、お付き合いなどが良いとされる様になっていったのだ。
社会が複雑になれば、人間関係も変わってくるのかもしれないが、どちらが良いかということではなく、生命のパワーでもある性愛が、徐々に政治的意図によってコントロールされていく様になるというところに、問題がある様にも思える。

性的大らかさのベースにあるもの

これほどまでに、混浴から男女を分けるのに時間がかかったのは、統治する側に問題があったというより、島国ゆえの大らかな民族性なのではないだろうか。日本は様々な宗教や文化を受け入れて独自の文化に変化させる。
西洋文化を一括りにするのもどうかと思うが、ヨーロッパの性愛と日本の性愛は歴史を遡ると信仰や社会的環境の違いがわかる。
戦時中は「産めよ増やせ」と人口は増加したが、敗戦してアメリカの統治下に置かれた際、恨むどころか、その文化を素直に受け入れていったのだ。
だが、その裏には叩かれても叩かれても這い上がってくる日本人の底力に脅威を抑え込もうとする政策も潜んでいた。



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