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特異な生い立ちでも親子仲良くいれるのは、なぜ?

文春オンラインで、美奈子さんの長女ノエルさんの記事を読んだ。

部外者から見ると特異な生いたちについて、前向きに語っていた。

彼女に限らず、特異な生いたちでも親と仲良い人、自分が親になることにも前向きになれる人がいる。そういった人を見るたび、「うらやましい」と思う。

私の両親は、非道だったわけではない。悪い人ではない。それぞれ自由に自分の思いを貫いているだけの人だ。
厚生労働省が提示している虐待の定義の中で当てはまるのは、心理的虐待くらいだ。保護の対象にはならないだろう。
受けてきた扱いに、「虐待」「毒親」といった言葉を当てはめるのは、気が引ける。

両親は、診断はないけれどおそらく発達特性を持っている。両親それぞれの生い立ちも聞かされてきたし、ブラックな職場環境や姑問題、転勤族だったことなどの要因で、生活はできても子どもを育てる状況でなかった。
主にそのしわ寄せを食らったのは、最初に生まれたわたし。
その上、わたしと母の相性がとても悪かった。それだけのことだ。

それでも、「生きづらさ」「マルトリートメント」「アダルトチルドレン」といった言葉がしっくりくる大人に育った。

良好な親子関係について語るこの記事と、今の私の気持ち。
違いは何なのだろう。

大学で福祉系に進学してからずっと探し続けているけど、答えが見つからない。
親になればわかると言われるけれど、もし分からなかった場合、このままの気持ちで、産んだ子に生きづらさを抱えさせてしまうんだろうか。

歳は離れていても、同じ家庭に生まれた兄弟が、母と暮らせるのは何故なんだろう。
両親の本質は変わっていない。母は相変わらずで、近所のおじいさんとのラブラブエピソードを兄弟に話しているし、一つのことに引っかかるとずっとその話をし続けるのも変わらない。ただ、わたしが「これが嫌だ」と言葉で説明したことをしなくなったらしい。禁止された行動はしないけれど、意味は分かっていない。

情緒的交流がしにくかったからなのか。性格の相性が悪かったからなのか。長女だったから悪いのか。

いつか落としどころが見つかるのかも分からない。仲良くしたいとも思わないけれど、「仲良くする」「距離を取る」とわざわざ考える必要がない生活がしたかった。

そうは言ってもどうしようもないけれど、記事を読んでうらやましくなったので、書くことで成仏させる。


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