「らしい」とか「らしくない」とか
随分昔・・・確か高校生のころ、当時のクラスメイトに悩みを相談・・・というか、吐露したところ
「らしくないね」
と言われた。
その言葉が耳に届いた瞬間、とんでもない悲しみが湧き起こって、そのあと何をどう会話したかは全く覚えていない。
今から思えば、その子との関係において私は専ら聞き役で、悩みを聞いたり相談に乗ったりしていただけだった。
その子からしたら私が悩むこと自体が単純に意外だったのかもしれない。
それでもその言葉は刃物のような鋭さをもって、私の心に突き刺さったのだ。
元来私は人に何かを相談するのは苦手な方…というか、よっぽど安心しないと話さない質で(かと言って悩みを話さないと信頼してないかというとそうでもないのだけれど)、相談するのは決まった相手にばかり。それでも悩むのが意外!というほどまでに私は明るく見えていたのだろうか。
自分から見た自分は悩むこともあるし気にすることもあるし落ち込むこともあるから、自分をとにかく明るい奴!だなんて思っていないけれど、どこかから見たらとにかく明るい奴に見える瞬間もあるのかもしれない。
人間は多面的で、ひとつの立ち位置から見える面は限られてくる、
だとしたら
「らしい」とか「らしくない」とか
そんな風に誰かを″誰か″という型にはめようとするのがナンセンスなんじゃないのか。
「その人らしい」
っていうのは、褒めてるつもりでもどこかで鎖になり得るんじゃないか、枷になり得るんじゃないか。
もちろん言葉が悪いわけじゃなくて、使い方や捉え方によるものだと思うけれど、なんとなくそんな風に思ってしまった。
″自分らしく″
なら多分いい。
自分が自分に対して
″自分らしく楽しめたらいい″
とか
″自分らしく頑張っていきたい″
と言うとき、自分は多面的な自分の中心にいるから、その全てをひっくるめた″自分″を指して「自分らしく」と言える。
それは、未だ気付いていない自分の一面でさえ包括できる言葉。
(もちろん自分が自分で”自分”という型にはめようとしている場合もあるだろう)
だけど、誰かが誰かに向かって「その人らしい」と言うとき。
たとえばAさんがBさんに向かって
「Bさんらしい」
と言うとき、この時の″Bさん″は″Aさんから見たBさん″ということになって、Bさんの中のごく限られた面があたかも″Bさんの全て″のように扱われてしまうことになる。
もしかしたらそこにはAさんの理想があるかもしれない、期待があるかもしれない。
そうしたらその「らしい」は、Bさんを縛る見えない鎖になる可能性があるのではないだろうか。Bさんが無意識にその期待に応えようとしてしまったら…もしくは昔の私みたいに、なんらかの「拒絶感」を感じて傷を負うかもしれない。
言葉はパワフルで、どんな風に伝わるかわからなくて、プレゼントのように人を喜ばすこともあれば、残酷に突き落とすこともある。
どれだけ言葉を選ぼうと、込めた想いと違う意味で届いてしまうこともある。
だからこそ、気にしすぎては人と話せなくなる。
それも何やら不健康。
だけど、自分の経験で得た「言葉の上での痛い経験」は同じことを誰かにしてしまわないように、この言葉はそんな風に使うんじゃなくて、こんな風に使おう、と決めておきたい。
もちろんケースバイケースで、いつだってその時の最善を目指して言葉を選ぶのだけれど。
これはそのうちのひとつ。
「らしい」とか「らしくない」とか
重たい枷や、鎖になってしまっているそれらは
自分の手で断ち切ってしまえばいい。
今すぐに、は難しくても、きっと少しずつ手放していける。
誰かの思う自分じゃなくていい。
誰かの見たい自分にならなくていい。
私が思う私の理想ともほど遠いけど、
今の私が、今の私。
そのままの心で歩いていけば
見える景色はどんな景色かな。
えりぴ