宮﨑駿「君たちはどう生きるか」という傑作の夢日記
宮崎駿さんは、氏が尊敬するサン=テグジュペリの事を『原石のまま海に消えたダイヤモンド』と表している。『流行にも、時代の風浪にもカットされない原石は決して古びない』と。
この「君たちはどう生きるか」という作品もそうなのだと思う。原石が溶けた海であり、風に立つ波に合わせて如何なる姿にも凝結する。核となるのは視聴者それぞれの心だ。
宮崎駿さんが作品の記号的消費や共有、野暮な解剖を嫌うのは存じているが、今の私の心のままに凝結したものを、日誌的に、夢日記的に、記録しておきたいと思ってしまった。
あの映画に「意味がない」と思われる世界を悲観しながら生きるのはあまりに寂しい。
そんな私のボトルメールのような拙文です。
※映画本編のネタバレに加え、個人の想像的解釈と決めつけが多分に含まれます。閲覧はご自身のご判断でお願いいたします。※敬称略。
以下、本文。――――――――――――――――――――――――
アオサギ。あの生き物を理解するのに、必ずしも高尚な教養は必要ない。宮崎駿は頑なにユーモアの人間である。あれは詐欺師だ。
母を亡くし、物寂しさを抱える外的希求心の強い少年の前に現れ、喜怒哀楽好奇心を人質に夢想の物語に誘う『ストーリーテリングの化身』それがアオサギの姿をもって描かれている。
宮崎駿の創造的人生を思えば、ある種、自嘲的なキャラクターと言えるだろう。
アオサギに関連して、私が強く感情移入するきっかけになったあるひとつの描写があった。眞人が母の遺した筆跡に誘われ、書籍「君たちはどう生きるかを」開き、涙する程に没入するシーンだ。
一見関係ないように思えるが、あれは「アオサギ」がもたらす「夢想への誘い」という同様の性質を、極めて現実的な側面から描写したもの。
「奇妙でけったいなアオサギ」
「切実なリアリズムに溢れた母の筆跡に誘われる一冊の本」
対極に位置するかのようなこれらの二つが、実は全く同じ性質を内包している。その二つの騙し絵構造の中央に浮かび上がったのは、穢れなき純粋な『夢想への誘い』の観念であった。
リアルとファンタジーを同じ熱量で見つめてきた宮崎駿だからできる、多重的な認知の上に平然と生きた描写。その凄み。にわかに没入が加速した。
眞人はそうしてファンタジーサイドの「アオサギ」に惹きつけられ、塔へと至った。私は便宜的に「夢の塔」と呼んでいるが、その内部は先人の書物が詰まった姿で描かれている。「夢」や「空想」を暗示するシンボルとしてこの上なく象徴的だ。
後々思い返せば、私の中のユングの存在がこの映画をタイムラグ無く理解する大いなる助けになっていたのだが、「塔」のメタファーもその1つと言えるだろう。ユングの提唱した「塔」の概念はいわば「庇護されながら自我を掘り出す為の、揺るがず聳える象徴」の様なもの。
個人的には、宮崎駿が描いているものは「ユングの元型の模倣(コピー&ペースト)」ではなく「ユングやそれに影響を受けた創作群や、河合隼雄さんに代表される二次的読解で使用されているメタファーへの部分的共感及び独自的派生」だと思っている。詳しく知りたい方はユングの自伝や、宮崎駿が影響を受けたと公言している「ゲド戦記」の原作者ル=グウィンの小説とユングの関係性などを調べてもらうと良いかもしれない。
閑話休題。
その「夢の塔」内部で「まやかし」の夏子さんを見てアオサギが発する「触れなきゃもっと持ったのに」というニュアンスのセリフ。これは夢の因果として寓意的だ。
「風切(羽)の七番?」で作られた弓矢に撃ち抜かれ化けの皮が剥がるアオサギ。『自分自身もだまくらかして詐欺みたいな夢や幻想に生きようなんて考えてるヤツは、時おり自分をそうして飛翔たらしめていた虚構がブーメランみたいに帰ってきて撃ち抜かれてしまうんです。そうして化けの皮が剥がれてしまうんです。』そんな宮崎駿の言葉が聞こえてくるよう。夢の因果として寓意的だ。
「眞人が潜る塔の向こうの世界」そこは瞑想するように、浸るように、深く、潜る形で描かれている。夢の因果として寓意的だ。
この作品の全ては頑なに夢の因果で出来ている。これまでも、これからも。
――そうして潜り、浸り、辿り着いたのは夢の別世界。
そこは夢の集合的無意識世界のようなもの。潜って至る描写の通り、その無意識の源泉ともいえる始まりの混沌。終わりも始まりも内包した、夢や空想の内臓とも言える世界。
いきなり直面するのは「我ヲ学ブモノハ死ス」と書かれていた墓。(※記憶違いがあるかもしれない)
これに関して、劇場での視聴時は「先人の『失敗』や『諦めた理由』を真に学んでしまえば、貴方の心もまた諦めに至るという摂理が示唆されているのかなぁ」あるいは「『愚者の墓』として学んではならぬ愚か者の先例が仄めかされてるのかなぁ」程度の仮定だった。しかし家に帰ってふと連想を広げている内に別の感想が生まれた。
宮崎駿監督の前回の引退作「風立ちぬ」でも引用された「風立ちぬ。いざ生きめやも」という堀辰雄の訳詩が有名なポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』だ。
「風立ちぬ。いざ生きめやも」という堀辰雄が訳した一文自体は文語的に誤訳であるとの説もあるが、その原文は、自らの内心に生じた心揺さぶる情動を「風が吹いた」と表現し「生きようと試みねばならない」との意志を書き留めた名文である。
『海辺の墓地』全文もまた、ヴァレリー自身が海辺の墓地に腰掛け、イデア(理念世界)に自問自答するように思考を旅立たせ、思慮を巡らせ、現実世界に意識を戻す中で、生きようと試みるに足る確信と覚悟を持つ内容となっている。
この『海辺の墓地』の引用だけでも「君たちはどう生きるか」の本質に肉薄してると言えるのではないかと思う。
眞人が潜った夢の世界は『海辺の墓地』から始まる。上記の感想を前提にするならば、この時点でこの世界が内包する観念と結末は既にほの暖かく示されている。
『夢幻、空想、仮定の世界に旅立ち、本懐をなぞり、そうしてわずかばかり得た確かさを指針に現実を生きようと試みる。』
そして、眞人が母から遺され読んでいた小説が「感じ得た情動を大切に抱き現実を生きる術を伝えんとする」「君たちはどう生きるか」であったこともまた、眞人が夢から現実に戻ることを考えると大いなる意味をもってくる。実に美しく巧妙な向上螺旋だと思う。
起きている時でも、寝ている時でも、夢を見たことがある人なら誰しもが体験したことのあるもの。そこに必要とされる高尚さや、貴賤なんてない。あれはどこにでもありふれた人の姿。
ここから更に、一際、夢の因果が強まっていく。全てに意味が持たされている。全ては夢の因果で出来ていた。
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あれは夢の集合的無意識世界。
その無意識の源泉とも言えるはじまりの混沌。
瞑想するように潜る清濁問わぬ夢の内臓。
目指す発端が生まれ、履歴がついえる世界。
全ては夢の因果で出来ていて、意味不明なほどに意味しかない。
頑なに大切に隠されたやわらかく愛すべき本懐に触れる物語。
それが「君たちはどう生きるか」だと私は思いました。
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私は別の感想メモでこのように記していたのだが、やはりあの世界を簡潔に表すならこれに尽きるのではと思う。
あの世界が美しいだけでないことは「死の島」の引用を例に出すまでもなく感じられるだろう。死んでいる人間の方が多いとはキミコの談。美しい原理も摩耗し形骸と化す。殺生すらできぬ潔癖な夢に死に続ける者もいる。「諦めの合理」を示す先例は溢れている。夢の住人は往々にして願いに飛翔する翼を持つが、その欲望は時に俗物的で人の内臓すら食らう。見境なく夢を捕食する欲望を抑えられない。借り物の夢と言葉でシュプレヒコールする。
そして、とある子を成した母親は現実を見ねばならず、夢の住人には手出し不可能。夢の埒外へと移っている。
しかし無敵に振る舞う勇ましい夢に生きていたキミコのように、火に包まれても願いのまま生きるヒミの様に、夢の源泉を抱き生まれる子どもたちの様に、母を求めてこの世界に辿り着いた眞人のように、決して破滅ばかりでもない。
子どもはいつも、守られながらに夢を見ていた。
巷の漫画やアニメで人気の「伏線」や「示唆」どころではない。頑なに、熱烈に、暗澹と、世界有数の天才が82年の生涯で沸々と内燃させてきた夢の功罪、清濁、その全ての因果がマグマのように噴き出してこの作品は出来ている。
私のような凡人には推し量りきれないほどマグマが吹き出し、熱烈に沸騰し、物語の経過とともに固まって、合理と摂理の結びつきが意味を証明し、幾何学模様的な結晶を成す。
それが絶景でなくてなんだというのか。それが名作でなくてなんだというのか。
私はこれまでの人生で、これだけ愛すべき本懐を可視化し、共鳴させた素晴らしい創作物に出会ったことがない。
宮沢賢治の作品群。西洋の児童文学。幻想小説。平沢進の楽曲群。似たものは感じてきたが、それらは現実に物質的質量を伴って見える景色ではない。(勿論、それぞれに得難い別の魅力があるが。)
遅ればせながら作画にも言及すると「冒頭の火のシーン」「海辺の墓地からキミコと眞人が漕ぎ出すシーン」など圧巻の極みだ。
冒頭の火のシーンは大平晋也さんの担当だと確定したらしい。時に異端ともされる大平晋也さんは起用機会を誤れば浮いたシーンに仕上がってしまう事もあると言われているが「浮遊感」「実感を伴う違和感」「強い認知世界感」を描かせたら世界一。このシーンはその画才の面目躍如である。
恐らく、そういう才能を演出から組み込んでキャスティングされている。巧みな技術に強硬な感情的演出が重なった、正に芸術的創作だ。
個人的には大平晋也さんの個性を最も効果的に起用した作品の1つではないかと思う。「神は細部に宿る」ではないが、こういう天才の個性を部分的演出にこそ組み込んだ作品がもっと増えてほしい。
そして、私が一番好きだったのは海辺の墓地から漕ぎ出すシーン。あれは稀なる圧巻の総合芸術だ。
「海辺の墓地」で風が立つ。意識と無意識の狭間。生きようと試みる心のままに示された指針に向かう。いきり立つ風を帆に受け船を出す。今を変えようと動き出すその先に存在するのはいつだって優しくない荒波だ。それを勇ましく真っ向から乗り越えんとする人の魂と高潔さ。崇高さ。肌で感じるロールモデルの温度感。その魂が、凄まじい描画力を持って描かれている。
実写で演じても、小説で想像させても、音楽で連想させても、絵画で空想させても、ああいう渾身の意図を持つアニメーションが伝える観念には届かないと私は思う。正に唯一無二だ。
後になって、プロデューサーの鈴木敏夫さんが「故・高畑勲さんをモデルにしたキャラクターが登場する」と語っていたのだと目にしたが、私はあのシーンこそがその概念の象徴なのだと考えるまでもなく感じていた。
あの静謐で勇ましい船出の映像をリフレインさせるだけでこの世は逆境においても前のめりに生きるに値するのだと思えてしまう。
作画監督の本田雄さん、作画の安藤雅司さん、井上俊之さん、大平晋也さん、米林宏昌さん、近藤勝也さんほか、個人的に確認出来ているだけでも錚々たるメンバー。今までスタジオジブリに大なり小なり関与してきた日本史上最高級のアニメーター達が少数精鋭で作っているのがこの作品である。
そして、映画は次第にクライマックスに至る。
物語の進行につれ、そう推察する中で感じるのは悲壮だった。
『映画は、世界を変えると思って作らなきゃいけない。実際は変わらないけどね』
心底から祈って満身を注いでも「たった一日」しか持たない自認を持ちながら、それでも頑なに夢に憧れ、夢に生き続けたとある生涯。
『この世は生きるに値するんだ』
そうあってほしいと願った世界も、一時の激情で両断霧消されてしまう悲痛な現実。
傷や産みの母親。自伝的側面。更に細かい描写の寓意。そして、最後の会話。あの世界を行き来する私の手には何が握られているのか。ラストシーンに向けて結び上がる無数の所感。大量に記述はしてみたが、それらは大切に隠しておきたくなってしまった。
5000字以上書いてもなお筆舌に尽くしきれぬ作品が「難解」と言われるのは当然だろう。しかし、それだけの概念的伝達を当たり前の様に内包した映画が稀有なる名作である事もまた当然だと思う。
これらの文章は公開初日に観た直後の感想を、公開からちょうど一ヶ月たった今いくらか加筆したもので、私はまだ一度しか映画を観ていない。
それでもあまりに多くの残響が私の心に繰り返されている。
「お前、覚えてるのか?――マズイよ。普通は忘れるんだ」
誰もが大好きなはずの『夢』の世界の物語。
『君たちはどう生きるか』
凄まじい名作でした。
《もちの宮》