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誰もが誰でもない。[フィクション]

深く海底で眠るアンコウが静かに目を覚ましゆったりと泳ぎ始めるように、私はそれを始めた。およそ1ヶ月、毎日40分続けている。静かに。ゆったりと。
もったいつけたそれというのは、ただのランニングなのだけれど、他人の感情がつくりだす波間で危く溺れかけていた私にとってそれは、自分自身を助ける行動にもなったのだから、重々しく話始めても悪くないはずだ。

楽しいと思えるまで努力する。その先に見える景色が必ずあるはずだから、と壇上に上がる社長の声が耳に入って消えていった。
現実味のない古臭い言葉だと思ったのは私だけだろうか。受け取った言葉を知らぬうちに咀嚼してしまうのは仕方がないことだろう。
端的で解り易くまとめられた言葉たちは、平社員たちを鼓舞させるものであるはずだった。
自分の実体験を交えて話した社長は満足気だ。社長の広すぎる額を眺めながら、今日は恋人と会う約束があったな、と思い出す。

その時の私は、毎日が限界寸前だった。

連日の激務をこなした後は、眠りたい、と思った。できれば人の温かさに包まれて眠りたい、そう思っていた。

彼はソファに腰を下ろすと、自分で淹れたコーヒーを啜った。美味しいよ、と私にも勧めた。私のコーヒーはチョコレートを溶かしたような甘い色で、彼のコーヒーはどこまでも深い茶褐色だった。
彼は、仕事をやめた方がいい、とも、続けた方がいい、とも言わなかった。ただ、甘い色のコーヒーを勧めて、しばらく休もう、と言った。
良いんだよ、休んでも。
良いんだよ、辞めても。
良いんだよ、先のことは考えなくても。
良いんだよ、ゆっくりしても。

彼の言葉が私の中にこくりと溶けていくようだった。
彼の腕に抱かれて私は眠った。

次の日、私は、仕事を休んだ。
結局、1ヶ月休んで仕事を辞めた。

私には、人には言えないくらい多額の貯金があって、生活には困らなかった。
ただ、生活の主軸を失った私は、ふにゃふにゃと項垂れた。毎日、何をするべきかとういことばかりに心を奪われては、何もすることがない自分を責めたくなった。

携帯を目的もなく眺めていると、メールの通知を告げるメッセージが画面の上に浮かんだ。すぐに開く気にはならなかったが、日が沈んで腹が鳴る頃にはメールを読む気になった。

from:成瀬さん
「聞いたよ。会社辞めたこと。一緒に走ろう。今度の土曜日の朝8時、くじら公園で。どう?」

ソファに沈んでいた私は、背筋を伸ばして座り直した。伸ばした背筋がじんわり温まるような気がしてこそばゆかった。

毎週土曜日にはランニングをするようになった。成瀬さんは私に何も聞かなかったが、会社の愚痴はよく喋った。そして、愚痴と同量の隙間を綺麗な言葉で埋め尽くすのだった。いや、愚痴すらも綺麗すぎると思ったのは、私の個人的な感情のためだろう。

私は、毎日走るようになった。土曜日は成瀬さんの隣で走った。凍えるように冷たい風が頬にぶつかる感覚が私を目覚めさせたし、肌着が汗で濡れる生暖かい感触が私の芯にぬくもりを与えた。

私は、料理をするようになった。彼は、私が作った料理をたくさん食べ、おいしい、と言ってくれるのだった。
幸せ、と言うにはあまりに普通すぎる日常だと思ったが、久しぶりのその感覚に身体がぎゅっと収縮するのが不思議だった。

私は、この幸せを破壊する衝動を鎮めるためにアディダスの真っ黒なシューズに足を捻じ込む。
金曜日だった。

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