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趣味の楽器演奏を通して、できるだけ若いうちに目標を達成できなかった私

私の趣味はピアノとチェンバロを弾くことです。

私が目指したいのは、趣味の楽器演奏を通して一人の人間として認められたいことです。
同時に、「子供の頃に困難があったけれど、好きなことで乗り越えて人間関係に恵まれて幸せに生きている人」や「子供の頃に健常の同級生にいじめられたり、コテンパンにメンタルを壊された人が好きなことで花開いて一発逆転して幸せな人生を手にいれる」が叶えられませんでした。

理由は、私は発達障害を抱えているからです。
まず障害があるというだけで、普通の人より叶えることがとても難しくなってきます。
遺伝子から負け組です。
突然出てきたものではなく、生まれつきです。
何事も人並みにできません。
マルチタスクがそもそもできない。絶対にシングルタスクでないと混乱します。
人の指示を1回で理解できません。飲み込みが悪いです。

子供の頃はどうにか同じようにできていたけど、小学校4年生くらいから周囲と同じことがだんだんできなくなった。
無表情な女教師の言い方に心がえぐられる毎日。
とにかく私そのものの存在が気に入らないのか、サンドバッグにしている。
どんどんできなくなる私に周囲は努力不足だと私に怒鳴りつけてきた。

当時は「不登校は悪」という思い込みが強く、辛くても義務教育だからという理由で学校に行かなければならないのがしんどかった。
周囲の無理解に心が殺されていった。
弱音を吐けば「あなたが強くなりなさい!」で切り捨てられる現実。
親を含めてみんな敵に見えた。
誰も味方なんていなかった。

そんなしんどい中でも、大好きだったのが音楽です。
5教科(国語・数学・理科・社会・英語)が平均以上にできない私が唯一、平均以上にできたのが音楽でした。
当時はピアノを中心に習っていて、中学から教えてくれた当時の先生が音楽の楽しさを教えてくれたので、音楽の学校へ行きたいと希望していました。

とある学校説明会で詳細は忘れましたが、学校関係者に散々に馬鹿にされにコテンパンにやられて進学を断念。
幼少期からの人間関係と人脈、レッスン内容で人生が決まってしまうのだと愕然としました。
その後は音楽教室への不信感からピアノを辞めました。

高校卒業後、行くところがなく仕方なく普通の大学へ行った。
ある意味学生生活の延命としてです。
得意なことが何もない、できることが何もない私は、就職や留学を考える余裕すらなかった。
コミュニケーション能力がなくてバイトができず、人よりお小遣いが少なくて惨めだった。
欲しいものが買えず、資格取得や留学など本当にやりたいことができなかった。

就活が始まった頃、自己分析や企業分析の意味が理解できなかったり、なぜみんな窮屈そうな黒スーツでないといけないのかが理解できなかった。
難しい言葉がたくさん並び、とてもついていけませんでした。
エントリーシートなどの書き方を相談したかったけど順番待ちで諦めて、仕方なく自己流で活動をしました。
伴走してくれる人が誰もおらず、突然荒波に放り込まれるような感じでした。

なんとか新卒で就職したものの、ブラック労働で適応障害と自律神経失調症で退職。その後もコミュニケーション力や人間関係がうまくいかず仕事が続きませんでした。
社会に出たら自分を出してはいけない。感情を押し殺して我慢して働くべきという周囲からの押し付けがきつかった。当時は最初の3年は我慢しろなんて言われていたことを思い出しました。

3社目の失業を機に発達障害の病院を受診し、広汎性発達障害の確定診断を受けた。
結果が出てホッとした一方、ここまで問題を放置して、不器用な私に叩いたり、怒鳴ったりしてきた親・学校の教師・異性に恨みしかないです。
私の周りは、意味もなく突然いきなり怒る人ばかりだったから生きづらかった。
一つずつ丁寧に優しく教えてくれる人は誰一人いなかった。
現在は一つずつ丁寧に教えてくれる環境がある子供たちがうらやましいです。

障害者手帳発行まで転職活動が止まって時間が空く為、独学でピアノを再開。
転職準備と並行して毎日練習ができて楽しかった。
ネットで練習方法を見つけては実行に移していた。
転職先が決まったら、レッスンを受けたいという目標が出てきた。
そして仕事しながら趣味で演奏を続けて、「子供の頃困難があったけれど、好きなことで乗り越えて人間関係に恵まれて幸せに生きている人」として世の中にアピールしたいという目標を立てていました。

年末に障害者手帳が無事発行され転職活動を再開。約2ヶ月後にようやく今の職場に就職が決まりました。

転職し仕事が落ち着いてきた半年後、ピアノのレッスンの受講を決意。
地元の音楽教室で失敗したので、今度は自力で検索。
親の反対を無視し、地元から離れたところにある個人経営の先生のもとで基礎からやり直しました。小さな子供が弾くものから少しずつレベルを上げて、10年以上かけてできるようになりました。特に子供の頃に弾けなかったバッハの曲をレッスンでたくさんできたのは、とても嬉しかった。
先生がバッハを嫌がらなかったことが本当に良かったです。

同時に、小学生の頃から気になっていたチェンバロを体験する機会があれば体験しました。当時は習いたかったけど家に楽器を置くスペースがなく断念。やりたくても我慢していた。

教室の発表会がなかった為、全国どこでも毎週開催しているピアノのとあるステージに参加したことがあります。
定期的に参加してステージ経験を積みたかったけど、私がこの場にいることを許してくれない空気が漂っていました。
「なんであなたがここにいるの?」という冷たい視線がとてもきつかった。
どこへいってもアウェイ状態。
特にとあるチェンバロ体験ができるところでは、体験ができて嬉しい!とワクワクしていたのに、会場へ入った途端睨まれている感じがして、私はこの場に立ってはいけないのかとショックを受けました。
時々思い出しては悔しさが込み上げてくることがあります。

時は流れて2020年に突入。
世界的に流行した感染症の影響により、家で過ごすことが増えた。
家でピアノを弾く機会が増えましたが、手が小さい私はショパンの難しい曲が弾けず、手を痛めることが時々ありました。

その頃、ピアノで弾くバッハ、チェンバロで弾くバッハのギャップに困惑するようになり、体調を崩しがちになっていました。
ピアノで弾くバッハは、超絶技巧の近現代な感じのスピード感が苦手で、ずっともやもやしていました。
思い切ってチェンバロのレッスンを受講をスタート。
それ以降は2つの楽器を行き来するような状態でした。

10年以上経過した現在。
SNSやストリートピアノが流行した影響で、華やかでパワーのある曲が弾けない私はどんどん自己肯定感が下がりました。さらに大人のピアノの状況がわかってしまいメンタル不調になった為、弾きたい曲を絞ることを決意。
今は好きなバロック音楽に絞ってやりたい曲に集中しています。
「ショパンのエチュードやバラードが弾けないからどうせ私はダメだ」という考えを捨てることができました。

音楽は趣味でもレッスン内容や人間関係で人生に影響するんだということがわかり、もう自分の努力ではどうにもならないんだという現実を知った。
障害があっても、「子供の頃に困難があったけれど、好きなことで乗り越えて人間関係に恵まれて幸せに生きている人」や「子供の頃に健常の同級生にいじめられたり、コテンパンにメンタルを壊された人が好きなことで花開いて一発逆転して幸せな人生を手にいれる」という目標は達成できませんでした。

目標が達成できませんでしたが、大人になって自力で教室を探したので、幸いにも良い先生に恵まれて今でも楽しく続けています。
今後も趣味でピアノとチェンバロの演奏を続けたいです。