いや、そうじゃなくてみんなも悪いんじゃない?って話
最近あった話をいくつか出しながら、考えていることをシェア。
「文字が多いと最近の子には読んでもらえないから、文字を少なくする」
チラシなり、冊子なりを作るときにこんな話をよく耳にする。
フライヤーや名刺、発表スライドで文字が多いと読みづらい、という話とはまた異なる。
その対象はnoteでも、Facebookでも、小冊子でも、ZINEでも同じなのだ。
どうやら「最近の子は長文(文字数が多い文章)を読むのが苦手」らしい。
自分も国語(読むこと・書くこと)が苦手なので人のことを言えたわけではないし、ここまでの内容は何も違和感はない。
しかしながら、「だから、読みやすくなるように(もしくは読んでもらえるように)、文字数を少なくしたほうが良いんだ」と言われると、急に違和感が出てくる。
「SNSをチェックしてね、という時に、デジタルが苦手な人はどうするの?」
たまたまフォローしている人の投稿で見かけた。
勝手に引用してしまって申し訳ない。
自分も同じような場面に当たることが多い。
どうしたら、ネットでリーチできない人に情報を届けるか、と。
さらには、現在の人口動態を考えたときに、その少なくない割合の人がデジタルに慣れ親しめていない(⊂生まれた後にデジタルが進出してきた)世代のはずである。
しかしこのような状況に対しても、先の話題と同じように違和感を感じてしまうのだ。
え、それって、できない人を育成する側に加担しているんじゃないの。
言ってしまえばこういうことだ。
コンテンツを届けるため、売り上げを上げるためには、こうした取り組みを行わなければならないのは、分かる。
でもその行動は却って、長期的にみた時に、悪い状況を生み出している側ではないかということを考えてしまうのだ。
長文の例であれば、短文のコンテンツを生み出してしまうことで、長文を読めない人を量産する循環へと加担してしまっているし、
デジタルの例であれば、アナログなシステムを提供することで、一生デジタルへ慣れようとする人を増やせないだろう。
それは良いことなのだろうか。
文章の例で言えば、Twitterという140字(現在は課金すれば制限が撤廃されるが)の中で議論が噛み合わないことや、メディア記事のタイトルがミスリードになって誤解される話。
デジタルの例で言えば、マイナンバーのシステムにおけるヒューマンエラーが減らないことや、キャッシュレスの普及率が一向に進まない話。
他にも、福島原発の処理水をめぐって科学的なデータが説得力を持てていないことや、まちづくりの現場で補助金まみれで経済があまり動いていないこと、などなど。
身の周りにある色々な問題を広く捉えた時に、批判しながらも、自分が加担していることは多いのではないか。
その時に必要なものはなんだろう。
利他の精神か? はたまた、社会システムの問題か?
でもそんなことを言ったって、また、「考えすぎだよ」とか言われてしまうのかな。
まちづくりが金持ちの遊び、と言われるように、「生活が懸かっていないからそんなこと言えるんだ」って捉えられてしまうのかな。
結論は出ないが、そんなことを考えていた。
(写真は、栃木県庁前の芝生広場で遊ぶ人たち)