【SAKE】|第一話|おにぎりと、鮭が消えた日。
俺が10歳のとき、母親は家を出ていった。
5歳の妹と鮭のおにぎりと、1万円をおいて。
置いていかれた時の気持ちよりもなぜか鮮明に覚えているのは
あの時食べた、しょっぱい鮭のおにぎりの味だった。
つやつやなごはんとしめった海苔と、噛むと口にじんわり染みわたる肉厚の鮭が死ぬほどうまかった。
こんなに旨いおにぎりを作った母親を、嫌いになれなかった。
今もだ。
ー7年後ー
蝉しぐれと鳩の鳴き声が交錯する金曜日の朝5時。
塩屋銀人は金色の短い髪をかきあげ、築30年になる木造アパートの家を出た。自転車にまたがって細道を走り、駅ビルに店を構えるおむすび屋「ころりん」のアルバイトに向かった。
5分ほど走ると、通り道の小さな公園で、ジャージを着た高校生くらいの男性がバスケのシュート練習をしていた。銀人は彼を横目で見た後、前を向き、まっすぐ自転車を走らせた。
早朝とはいえ、むしむしと暑い東京の夏。
汗を流しながら坂道を一気にのぼり駅ビルの駐車場に自転車をとめ、従業員専用通路を通って店に向かう。週6日の早朝バイトを休みなく2年以上継続する銀人は店長代理のような役割を任されており、一人で店を任されることも多い。今日は一人シフトの日だ。
ころりんがある店は都内だが、オフィスビルが並ぶ地域でもなければ、通勤ラッシュで人が殺到する駅ではないため、店が混雑することは少ない。早朝は仕込みと調理、お昼のピーク時に向けた準備が銀人のメインの仕事だ。
調理が好きな銀人にとっては、機械のように人と接して接客をこなすよりもマシに思えたし、楽に感じていた。アルバイトを始めて2年になるが、苦に思ったことは一度もない。
いつものように店の制服に着替えて手を洗った銀人は、食材を出すために暗く冷たいバックヤードに入り、電気をつけた。
「ん?」
いつも通りの日常が始まるはずだったのに、異様な光景が広がっていた。
開けっ放しの冷蔵庫。
床にはびこる無数の食材。
そして、食材の近くに血痕のような跡。
茫然としていた銀人がふと冷蔵庫の空いた扉に目をやると、新たな衝撃が走った。
「鮭が…ない」
扉の近くにあるはずの鮭が入ったパックが、ごそっとなくなっていたのだ。散らばった食材を踏まないように避けながら冷蔵庫にかけより、隈なく探したが無意味であった。なぜか鮭だけ、すべて消えていた。
「俺の鮭…!!!」
銀人はころりんの鮭のおにぎりを愛して止まなかった。
血痕だらけの事件現場の異様さよりも、“推し”の鮭を盗られた憤りでいっぱいだった。(もちろん銀人の鮭ではなく、店の鮭であるが。)
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