見出し画像

おみくじ

 新年一月一日、近くの神社へ初詣に出かけた。普段は閑散としているその神社も初詣の時期はやはり人が多いようで、参拝するまでにいくばくかの時間を要した。この神社の神様も、こんな時だけ人がわんさかやってきて、やれ金運上昇だ恋愛成就だと次から次へとお願いされても、それを全て叶えるにはとても追いつけないだろう。せめて定期的に参拝していれば叶えようと重い腰を上げる気にもなるが、年一回だけお参りされても神様の知ったことではない。かく言う私もこの神社へは年一回程度しかお参りしないので、どの口が言っているのかという話ではあるが。

 参拝を終えてそそくさと境内を後にしようとしたところで、おみくじを引くための行列に出くわした。昔はたまに引いて一喜一憂していたのだが、ここ最近は全く引いていない。一応おみくじを引かなくなったのにはそれなりの理由がある。

 私がまだ京都に住んでいた頃、新年一月三日に下鴨神社へ初詣に出かけた。さすが京都の由緒正しき屈指の大神社だけあって、年が明けてからもう三日目だというのに大勢の人が参拝に訪れており、参道には数多くの露店が軒を連ねていた。りんご飴もいいが寒いからやはりたい焼きかなと、一人でぼそぼそ言いながら糺の森を歩いていく。盆地特有の乾いた風が頬を揺らし、あれだけぬくぬくとしていた私の身体はみるみる冷えていく。もう少し着込んでくれば良かったかなと思いながら、帰りは温かい甘酒にしようと心に決めて朱色の大鳥居をくぐった。

 ひとまず本殿にお参りして境内を見回すと、やはりここでもおみくじを引くための行列が目に入った。当時は色々と行き詰まっていたので、気分を変える上でも軽い気持ちで引いてみると、大吉が出た。その下の各項目の文言も概ね良さそうことが書いてある。今までたまにしか引かなかったので自身で引いて大吉が出たのがその時が初めてであり、そのままその大吉のおみくじを財布に入れて持ち帰り、「大吉が出たのだからこれは今年一年いいことがあるぞ」と思うと少し気分が明るくなった。否、少しどころではなくて随分気分が高揚したはずである。なぜならその後甘酒を飲むのも忘れてしまっていたのだから。

 その後その大吉のおみくじを財布に入れたまま一年を過ごした。その年にとてもいいことが起こったかと言われれば、もちろん楽しいこともあり辛いこともあったので、一概に丸々一年幸せだったとは言い難い。でもなんとなく心に余裕ができて一年を過ごすことができたのは、やはりあのおみくじのおかげだったからであろうか。

 大吉が出た次の年も下鴨神社へ初詣に出かけた。またおみくじの列が目に入ったが、どうせ引いても大吉以下(昨年同様大吉であればいいが、小吉や凶など出れば落ち込んでその年に支障をきたすかもしれない)と考えると中々引く気になれず、結局は「この大吉のおみくじさえ持っていれば生涯ずっと大吉でいられる」と勝手に結論付けて今に至る。

 というような話を先日友人としていると、「おみくじって有効期限が一年間なのでは?」と鋭く突っ込まれた。もちろん神社側からすれば、一年に一回引いてもらった方が金銭的にもありがたいことは重々承知しているが、残念ながら私はこの大吉のおみくじを手放すつもりは毛頭ない。おみくじのどこにも【本おみくじを引いてから向こう1年限り有効】とも書かれていないし、結局は気分の持ちようであるから、毎年のように「今年は大吉だ、来年も大吉だ、その先もずっと大吉だ」と思い込んで過ごす方がよっぽど良いのではないか。

 こんなことを書いていたら久しぶりに大吉のおみくじの文言が読みたくなって、財布の中を探したが見つからない。あれ?どこかに大事にしまっておいたのかなと思い、本棚やら貴重品入れのケースを探したがやはり見つからない。さすがにあんな大事なおみくじなのだから捨てたわけではないとは思うが、どこかに大事にしまってその場所を未だに思い出せていないだけか、はたまた偶然にも財布からこぼれ落ちてもう私の手元にはないのだろうか。

 ただし大吉のおみくじは今も私の心の中にしっかりと刻み込まれているので、なくしたからと言って焦る必要はない。年末の大掃除で綺麗に片付けた部屋を散々散らかして探した挙句見つからず、多少というか大いに焦っていることにはこの際目を瞑って、これからも私の運勢はずっと大吉だと信じたい。