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妄想的京都旅行 #2

 蹴上インクラインを北上し、南禅寺、永観堂を通り過ぎると若王子橋が現れる。この小さな橋が哲学の道の南端に位置し、ここから銀閣寺まで琵琶湖疏水に沿って道が続いている。哲学の道といういかにも文学的な名前は、善の研究で知られる西田幾多郎がこの道を散策しながら思案を巡らしたことに由来するらしいが、私には哲学のての字も分からないので詳細は割愛する。新緑の哲学の道を歩きながらしがない妄想に耽り、「嗚呼、哲学とはかくたるものか」と考えるが、これでは大真面目に哲学の研究をしていた昔の学者に大変失礼である。しかしながら「人それぞれ哲学の意味合いは異なるものであるから、私が哲学だと感じればそれはそれで哲学なのである」という、いかにも薄っぺらい、中身のない似非哲学を吹聴し、銀閣寺へ向かってずんずんと足を進ませる。

 銀閣寺橋まで来ると哲学の道は終わり、右手には銀閣寺へ続く参道が見えてくる。参道の両側には土産物屋が立ち並び、(失礼を承知で申し上げると)無知な観光客に様々なものを買わせようと手ぐすねを引いている。もちろん中には良い品物もあるのだが、大抵は京都駅の土産物屋で購入できたり、はたまた京都ではなくたって手に入るものも多い。旅の楽しみの一つとして目に入ったもの、気に入ったもの記念として購入できる点は良いが、今の私は妄想的旅の途中であるので、妄想的な旅の思い出を架空の土産物に詰め込む必要などないのである。しかしながらこれからのことを考えるとお腹が空くので、ミニパックの生八ツ橋を1つ購入することにした。

 店先に入ると店員に試食の生八ツ橋を口の中に次々と放り込まれる。店員の愛嬌のある笑顔の裏には「きちんと試食までしたからには、何か購入してもらわんと困ります」とでも言わんばかりの京都人特有の含みがありそうで、もうその場から逃げ出すことはできない。「言われなくてもはじめから買うつもりでした」と自信満々に、意気揚々とミニパックの生八ツ橋1つを店員に渡すと、「あれだけ試食して買うのはたったこれだけですか。しかも味もこし餡だけなら、あんなにいろんな味を試食しなくてもよろしかったのに」と言いたそうな顔を向けてくる。ここで同情しては店員の思う壺であるので、「私としてもこれ以外は要らない」という表情を浮かべると、店員も渋々納得して引き返していった。仕方ない、妄想の旅では身軽な方が好都合なのだ。次回妄想ではなく本当に京都に来た際はもう少し買うので、今回は我慢していただきたい。

 八ツ橋を買って店を出てから、銀閣寺の方へずんずんと登っていく。目の前に門が見え、その中に観光客が、まるで異世界の門をくぐるようにどんどんと入っていくのを横目に見ながら左に曲がる。「あの人はここまで来ておいて銀閣寺に寄らずどこに向かうのか」との観光客の目線も何のその、そのまま進んでいくと、小さな登山口のような場所に行き当たる。そう、ここが大文字山の登り口なのである。五山送り火の際には一際大きな「大」の文字が輝き、それ以外の時期でも禿げた山肌に「大」の文字が見て取れる。遠くで見ている分にはそれほど高そうな山には見えないが、いざ目の前まで来てみるとその大きさに圧倒される。途中まではコンクリートで舗装されているが終盤以降は普通の登山であるので、サンダルやヒールで登り始めた人たちは大抵途中で後悔することになる。それでも多くの人たちがこの山に登るのにはそれなりの理由があり、当たり前だがその達成感は登った人しか味わうことができない。

 山を登り始めて15分、早くも疲れの色が見え始める。なぜ妄想なのに疲れるのかは私にも分からないが、本能的に疲れた方がより達成感が味わえることを知っているからだろう。「もうバテていらっしゃるのですか、そんなんやと上まで辿り着きやしませんよ。いっそここらで一休みしませんか」と、隣を流れる川から優しい声が聞こえてくる。無論この声も私の妄想の産物なのであるが、何故かここの川や木々の声は優しい。その優しい声の裏には、観光客を遭難させて食っちまおうというこの山の主のたくらみもあるようで、容易にその優しさに乗っかってはいけないのである。「お気遣いありがとうございます、しかしながらここで休憩する訳には行きません。最後まで一気に登り切ってみせます」そうお礼を言って私は再び歩き出す。

 登り始めて40分、ついに「大」の付け根部分に到着する。吹き抜ける風と京都を一望できるこの景色にありつけて感無量である。先ほどの疲れもどこへやら、夢中になって眼下に広がるあれやこれやを眺めていると、所々に切り取られた緑が目立つことに気付く。手前が吉田山、その奥が鴨川と下鴨神社、そしてその奥が御所というようにそれぞれの緑を線で繋いで行くと、何かしらの形ができそうな気がするが、それを考えるのは妄想の範疇を超えているので、次回来たときにしよう。

 ここで指をパチンと鳴らすと瞬時に辺りが暗くなり、京都の夜景がお目見えする。高い建物が少ないためこれと言って注視するものはないが、この街の灯り1つ1つが組み合わさってこの景色が出来ていると思うと、そう簡単に言葉で言い表せるものでもない。

 そういえば以前夜の大文字山に友人たちと登ったことを思い出した。しっかりとヘッドライトを装着した上で足を滑らせないよう慎重に登り、やっとのことで辿り着いて夜景を見ながら宴を催した。あの景色を見ながら飲む酒は最高に美味かったが、今思い返せばよくあんな大荷物を上まで運んだものだと自分でも感心してしまう。後日、今度は昼間に登った際に長老らしき人物が話しかけてきて、「この山は神聖な場所であるのに、最近若者たちがよなよな酒を飲み交わしているらしい。わしはそのことが許せん」と言われた際は「そ、そ、そうなんですね。は、は」と笑うしかなかったのは良い思い出である。

 今回は妄想の中であるので、ここで美味い酒をたらふく飲もうとも、誰も文句は言うまい。ちょうど手元にはつまみの八ツ橋もあることだし。