見出し画像

推し引退にクソデカ感情をぶつけるnote

 推しが引退した。
 
 わたしは今まで様々なアイドルや選手を推して来たが、引退まで見届けられたことはなかった。今回は引退に際して抱いたクソデカ感情をぶつけるnoteを書こうと思う。
 
※ この文章は自己満であり、自分語りです※
 
 前回のnoteでは2019年くらいまでの増田投手に対するクソデカ感情を書いた(>>いまだからこそ知ってほしい増田達至投手のこと参照)ので、今回は2020年以降、特に引退前後に抱いたクソデカ感情を思い出しながら書いていく。
 
 2020年、増田達至大守護神がセーブ王に輝き、国内FA権行使ののち埼玉西武ライオンズに残留、つまり生涯ライオンズ宣言をしたときは、とても嬉しかった。ホールのケーキを買ってお祝いした。ケーキのプレートには“ますだざんりゅう”と書いてもらった。店員さんにケーキプレートに記入してほしいメッセージのメモを渡す時、あまりの嬉しさに恥ずかしさなど感じなかったのを覚えている。

意外にクリームがさっぱりしていた残留お祝いのケーキ 

 同時に2020年はコロナ禍だった。わたしは医療従事者として働いており、仕事でもプライベートでも感染予防対策を行っていた。閉鎖的な病院で働いていたこともあり、休日に県外に出かけることも禁止された。

コロナ禍で作った応援メッセージボード

 そんな中の増田達至投手の残留のニュースはわたしにとてつもない喜びをもたらした。
 しかし、このときハッピーエンドに近い喜びを感じていなかったか、とも考える。選手がFA移籍して出ていくのが当たり前の埼玉西武ライオンズ、その環境下で選手が宣言残留するという出来事はライオンズファンのわたしにとって、最大の目的を達成した、という報われたような感情にならなかっただろうか。まるで、おとぎ話の終わりにある「幸せになりましたとさ」に近いもの。
  しかし、残留しても選手の野球人生は続くのだ。
  
  ただ、FA移籍でさよならではなく、引退までライオンズで投げ続ける姿を見ることができる、という大きな気持ちも生まれた。

 2021年からの増田投手はどうだったか。2021年、2022年と輝きは増し、2020年に150セーブを達成した。スランプに陥っても自分自身と向き合い、なんとかして復活し、また活躍する姿を見せてくれた。春先はよくないけどなんとなく夏場に調子を取り戻し、いつの間にかファンを安心させてくれる、そんな増田投手の姿がずっと見られると思っていた。

  しかしだんだんと調子が戻らなくなっていき、一軍で投げる機会が少なくなっていき、投げる球のスピードが遅くなっていく…そんな様子を見てわたしも不安になっていった。選手の引退までを見届けるということはFA移籍のような突然の別れではなく幸せなことだと考えていたが、つらい気持ちになることも多かった。時の積み重ねを感じるのだ。

  契約期間が残っている間はよかった。しかしだんだんと、決して誰にも言えないが、引退の日を意識するようになった。まだ大丈夫、今日も2軍に帯同している、2軍で投げている、でも打たれた、まだ大丈夫?そんなふうに悩む日々が始まった。別れを意識するのも、もう戻らない日々を懐かしむのも嫌だった。

  そんな中、岡田雅利捕手と金子侑司選手が引退を発表した。引退試合の日程はなぜか9月の半ばだった。チームは最下位であり、再建をどうするのかと叫ばれていた。これはもしやと思った。どんな時でも推しをポジティブに応援したいと思っていたが、推しを追っているからこそ、引退するのでは…?という気配には敏感になっていた。

  そんな中、増田投手の引退の報道が出た。深夜だった。やはり、と思った。理由は前述のとおりだ。すぐに悲しさはこなかった。分かってはいたが現実感がない、そんな気持ちだった。

 引退試合の日はたまたま夫の知人からチケットをいただき、休み希望を入れていた日だった。わたしはシフト制で働いており、夜勤や遅番もあり、突然の勤務変更は難しい。つまり、優勝試合や引退試合など駆け付けたい試合があっても、行けない可能性が高いのだ。そのため、わたしは常に「いざとなったら◯◯試合を観るために仕事を辞めてやる」と思っていた。
  なので、引退試合に行けると分かった時は神はいるのでは?と思った。球場で栗山神やおかわり神を目撃することは多々あったが。

ベルーナドームに神はいる、わたしは見たんだ

 引退発表から引退試合までの間、ライオンズ友達やライオンズファンである夫と増田投手引退についてたくさん話した。ただわたしには現実感がなく、推しの引退を受けての感情を言語化できていなかった。今までおつかれさま、さみしい、かなしい…どれもしっくりこなかった。周りの皆が気持ちの落としどころつけていく一方でわたしはそれができないままだった。

 引退試合に向かっていくわたしの気持ちはなぜか昂っていった。一生に一度しかない推しの引退試合まで生き抜くという使命。けがなく!げんきに!粛々と、毎日を送った。ショックで痩せるどころか、体重は増量した。

 そして2024年9月28日に引退試合を迎えた。
    まるで、初めて野球場にいったときのようにワクワクしていた。
     お気に入りの一張羅を着て、いつかに配布されたトンチキグッズ増田達至リアル顔面おめんを5枚とお色直し用のユニフォームをカバンに詰め、球場入りした。

トンチキおめんと引退記念ガチャ缶バッチ
アメックスラウンジで寿司を食べた

 試合が始まった。わたしは増田投手が目に入ると泣いていた。ベルーナドームにオルガンの演奏で「ライオン」が流れて泣く、増田投手がブルペン入りして泣く、ブルペンでますだおかだバッテリーで肩を作っていて泣く、ついに「ライオン」が流れて泣く、増田投手が投げている間泣く、増田投手の引退セレモニーで泣く、とにかく泣いていた。それ以外の試合内容は淡々としていたため気持ちは落ちついており、情緒が安定しなかった。

この腕上げも見納めか…

 今、引退試合を終えた直後でこれを書いている。
 率直な気持ちとしては、“増田投手が引退したという現実感がない”。それはなぜか。今日のピッチングがいつも通りに見えたからだ。
 今日も、いつものように淡々とストレートを投げ込み、そして打たれた。9回というプレッシャーのかかる場面で、四球を出そうが、ホームランを打たれようが、失点しようが、結局は抑えて勝利をもたらす。前の日にホームランを打たれようが、春先に調子が悪かろうが、結局は守護神として「ライオン」の曲とともに胸を張ってマウンドに帰ってくる。それが増田投手だったのだ。
 来シーズンになったら、増田投手はいつも通り投げているんじゃないかと思ってしまっている。この世のどこに行っても、もう投げる増田投手に会えないという実感がないのだ。だから悲しみにも浸れない。
  

 わたしは、野球をする増田達至氏しか知らないが、増田達至という投手を応援する中でいろんな気持ちになったし、さまざまな影響を受けたと思う。

(たぶん)増田投手を育んだ海 ※淡路島で撮影

 増田投手を応援する中で春季キャンプの存在を知った。飛行機に乗り、南郷のキャンプに行った。いつのまにか飛行機移動が1人でできるようになった。
 増田投手と一緒にチームのために戦うブルペン陣が好きになり、夜行バスに乗り春野のキャンプに行った。夜行バスでの移動が苦じゃなくなり、さまざまな場面で夜行バスを使った。夜行バスで遠征に行き、試合を観た後夜行バスで朝地元に帰ってきてそのまま出勤したこともあった。
 増田投手の写真をたくさん撮りTwitterにあげた。増田投手がどんなに良い人物か知ってほしい気持ちだった。そのTwitterはこじらせとライオンズ愛を凝縮したものになり、夜な夜な多くの感情を吐き出すこともあった。そのTwitterを見て楽しんでいたという酔狂な男性とのちにわたしは結婚した。
 増田投手の故郷という理由だけで淡路島に行き、50kmのウォーキング大会に出た。完歩し、50km以内ならどこにでも歩いて行ける自信をつけた。 

 
  増田達至という投手にとって、わたしは何の関係もない、ただのファンだ。他人だ。

 ただ、わたしにとって増田達至は、わたしの人生にさまざまなきっかけをくれた人だった。


2016年、推しをはじめてカメラで撮ったときの写真
ブルペンを取るためにFV席に通い詰めていた
後にも先にもこのキャンプで撮った笑顔の写真にかなうものはない
正面から推しを撮れる神宮最高
シンガリ部隊Tシャツは家宝
ますだおかだTシャツは増田投手にも渡していた
偉い人の横に座って手を振る増田選手会長
閉店ガラガラ
2019年はこの瞬間に尽きる
メガネの増田さんいいよね
どんなに推しが奥にいようとも気合でピントを合わせる胆力
2020年コロナ禍でこの日しか現地で推しに会えなかった
白線を越え、一歩踏み入れる瞬間
誕生日に球場で推しを観た喜びの日
マスクはしているが、瞳の輝きは隠せない
手にできたマメに守護神の重みを感じる
来年もその先もずっとよろしくですって思いながら撮った写真
推しの涙は世界一美しい
12年間お疲れさまでした


宣言残留が物語の終わりでないように、引退も終わりではないとわたしは思っている。
 つまり、どんな形でもまた野球場で会える日を楽しみにしています!!ということ!!!!



もうちっとだけ続くんじゃ

いいなと思ったら応援しよう!