pan

 ぼくはパンを生で食べる。食パンでさえたまに焼かないときがある。これも怠惰ゆえだけど、そのままのほうがパンの味ってよくわかるんじゃないかなと思っている。

 だからたまにオーブントースターで焼いたりすると、慣れないものだからつまみを回しすぎて焦がしてしまう。バターロールパンもそのうちの犠牲者の一人だった。表面が黒く覆われていて、手を伸ばすとものすごく熱い。バターのいい匂いもするけど少々焦げくさい。お腹が空いているしもったいないしで食べたけど、ちょっと損した気分だった。

 と、以上のことをパンのSNSである。panの日記に投稿したのは朝のことだった。書き終えてしばらくしてから「ああ迂闊だったな」と自分の過ちに気づいた。焦がしたことじゃなく、日記を投稿したことだ。

 panには派閥がある。パンを生で食べる人たちと、パンを焼いて食べる人たちだ。この二つの対立は凄まじく、pan内部にある掲示板では日夜論争が巻き起こっている。生で食べる人たちは、「一度焼かれてあるものを再び焼くのはおかしい。野蛮だ。自然の理から外れている。靴下をはく石田純一のようなものだ」と主張していて、焼いて食べる人たちは「パンをおいしくさせるためには焼かなくてはならず、お洒落することと何ら変わらない。むしろ食べることに一片の努力もしないお主らはパンを食べることを何と心得ておるのか。靴下をはく石田純一のようなものだ」と主張していて、お互いに一歩も引く気がない。

 もちろん世の中の大半の人は「そんなのどっちでもいいよ」と言うだろう。しかし、そういう人たちは平気で「フランスパンを焼いた」「そのまま食べた」など日記に書き、コメント欄が炎上して去っていった。

 空気の読める中立派か、過激派か、いまやpanは三つ巴状態になっており、着実にユーザーは減っていっている。下手なことを書いた瞬間に「パン意識が低い。小麦粉からやり直せ」と罵倒されるSNSを誰が利用したいと思うのだろうか。

 そういうわけでぼくも日頃は利用しておらず、パンを食べたことをpanに書くときもボカすことで難を逃れてきた。写真にもモザイクを入れることで焼いたかどうかわからないようにしている。「やっぱりパンは焼くべきですよね!」みたいな明らかな釣り野伏せのコメントはスルーして、純粋にパンが好きな人たちと戯れている。

 そもそもパンの専門店で買ったり、自分でパンを焼けば、過激派と接触することはないのだ。そういうこともあって彼らの存在をすっかり忘れていた。迂闊だった。

 ぼくはパンを焼いて焦がしたのだ。生派からは焼いたことへ対しての批判があるだろうし、焼く派からは焦がしたことへの批判があるだろう。パン好きにとってパンを粗末にすることは阿鼻地獄行きに匹敵する。慌てて記事削除へと動いた。

 再びサイト欄を開いたときには通知欄に26という数字が書きこまれていた。その間たったの12分である。終わった。アカウントを削除しようと思った。しかし、それは逃げだ。せめて書かれたコメントを見てからにすべきだ。そうしている間にもコメントは28になっていた。

 恐る恐る見ると、意外や意外コメントは好意的なものであふれかえっていた。「災難でしたね」とか「バターロールパンは2分くらいがいいですよ」とか。もちろん非難する声もあった。しかしそれはごく少数だった。驚いたのは、@焼く派も@生派も対立していなかったことだ。焼いたことへの非難も焦がしたことへの非難もない。

 パソコンのディスプレイが歪んだ。嗚咽していた。こんな形でwindowsXPが世にリリースしたときから対立していた彼らが争いをやめるなんて思ってもいなかった。もちろんこのコメント欄だけだろう。しかし、歴史は動いた。一時でも平和は訪れたのだ。

 ひとりひとりに感謝の返信とイースト菌マークを押した。すでに156件になっているすべてのコメントに返信を終えるのに数時間はかかるだろう。しかし感謝の気持ちを伝えたくてしょうがなかったのだ。

 これ遅刻したときの言い訳に使ってください。