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岬でバスを降りたひと

(お借りした画像は、作品とは全く関係ありません、すみません)映画化もされた人気マンガ 蟲師 の作者の方の短編集の中に「岬でバスを降りたひと」という物語があります。無料公開されているので(太っ腹!)再読させて頂きました。そして、あらためて思ったことを残したくなりました。もともと蟲師というマンガが大好きで、この短編集も発売当時に購入し、とくにこの「岬で〜」の物語がとても好きでした。

(物語のネタバレになります↓)



この物語の舞台の岬はいわゆる自殺の名所。そこの最寄りのバス停で小さな店が開いていて、タバコやジュースやお菓子やカップ麺などを売っている。そこのお店番のおばあちゃんと孫。孫は、バス停でバスを降りて岬へ向かう人と、夕方また乗って帰る人の数を数えてみたりする。数が合わないなら、身を投げて自殺したのだ。

自殺を止めようとは思ってはいないし、思うな。おばあちゃんは孫娘に伝える。背負えば、潰れてしまう。ただ、店を開けて、寄ってくれる(そして、自殺を思いとどまる)のを待とうと思う。

そんなおばあちゃん。

主人公は、自身が親となって、おばあちゃん亡き後、その店を閉めに戻ってきた孫娘です。しかし、いざ店を閉めようとすると、、、



ここからはわたしの自分語りになります。

わたしは、観光客がやって来られる山寺で育ちました。山奥だけれど、お客さんはいつ来るかわからない。だからずっと誰かは居ないといけない。そして観光客だけではなくて、なんとなく助けを求めておられる方もいらっしゃるのです。お寺ですから。お坊さんとその奥さんとはいえ、自分の両親に、助けられる度量があるとは、、思えないのですが。それでも、受け入れていた両親を好もしく思います。

ただ、わたしは嫌だったんですよね。。ずっと居ないといけないってすごいストレスです。それと、やはり怖かった。賽銭泥棒とかもありましたし。助けを求めて来られるかもしれない、と頭の片隅に思いながら門戸を開けて待っている。これは、すごいしんどいことだなぁと思うんです。

でも、いまわたしはなんとなく、「何か」がある「場所」で「待って」いるひとになりたいなどと思っているのです。提供したいものは安心や癒しなのだと思います。「何か」は、それだけで癒されるようなもの。。。お寺はまさにそれだったなぁなどと思います。

こどものころ、嫌だなあと思っていたことなのに、いまは(できたらなぁ、、)と思っているみたいです。でも、自律的に、たとえば選ぶことはやりたいです。それこそ潰れないために。毎日でなくてもいいでしょう。自分で抱えなくてもいいでしょう、と。

岬でバスを、、のおばあちゃんと孫娘の在り方が、わたしの今の気持ちにまた何か作用しました。この物語は、終わりまで静かです。

希望があります。






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