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自分の物差しがないのは背骨がないのと同じ

多分5年前くらいだったと思うけれど、シナリオが書けなくなった時期があった。

うつになると食べ物の味が分からなくなる。砂を噛んでいるような感覚だと聞いたことがあるけれど、それの文章版だと思ってもらえたら分かりやすいだろうか。

文章が、ただの文字の集まりにしか見えなくなってしまったのだ。

五分くらいかかってやっと一文字を打ち込む。それも絞り出すようにして。

自分の書いている文章が、果たしてちゃんとシナリオとしての体裁を成しているのか、そもそも日本語として成立しているのかどうかすら判断出来なくなっていた。

大した量を書いていないのに、すさまじい疲労感に襲われた。そんな状態が何ヶ月も続いた。

もともと執筆速度が速いほうではなかったけれど、これはさすがにおかしい。でも、思えばずっとこの違和感はつきまとっていたのだ。

商業でアダルトゲームのシナリオを書き始めてから、楽しいと思えることなんてなかった。いつもいつも、絞り出すようにして【それっぽく見える】ワードをかきあつめていたじゃないか。

その違和感を放置していたつけが回ってきたのだと思った。けれどなぜこんな風になってしまったのか、ずっと分からなかった。

書くことが好きで、この仕事に就いたはずなのに、どうしてこんなに苦しくなってしまったのか。

アダルトゲームから遠ざかって二年程経って、おぼろげながらその原因が見えてきた。

前の記事を少年Bさんがシェアしてくださった。ありがとうございます!

Bさんの商業の記事はユーモアとセンスに溢れていて、ご本人が心から愉しんでいることが伝わってくるので、読んでいてつい頬がゆるんでしまう。

そしてnoteはシビアながら優しさに満ちていて、直接読む人の心を撫でてくれるようだ。

どの記事にも共感しかないのだけれど、書いていて幸せかどうかなんて当時はまったく考えなかったなぁ……とこの記事を読んで思った。


Bさんとのこれまでのやりとりや、私の記事に関するツイートを読んでいて、ぼんやりとしていた「何故書けなくなったのか」という答えがくっきりと輪郭を持って浮かび上がってきた。

当時の私には、自分の物差しがなかったのだ。

「楽しい」と思えないのはあたりまえだ。だってそもそも、何を書けば楽しいのかも分かっていなかったのだから。

これは仕事だから私個人の好き嫌いは関係ないと思っていた。どんな作品に関わりたいかなんてビジョンはまったくなかった。だから、自分が置かれた場所以外のどこにも行けなかったのだ。

ただ必要とされたくて、役に立つ人間だと思われたくて、相手の望んでいることを必死にリサーチして「正解」を導き出そうと必死だった。

来た依頼はよほど条件が悪くなければ全部請けた。もともと「好き」なんて存在しない私にとって、武器になるのはそれしかなかったから。

クライアントにとって使い勝手がよい人間になれば、どうにか続けていけると思っていた。

答えのないテストを必死に解いているような状態だ。実際、テキストを書いている時の気持ちは大嫌いだった数学のテストを受けている時とそっくりだった。

わからない。何がこの作品の魅力になるのか、自分には全然わからない。でも多分こうだろう。類似作品にはこういう単語が頻出しているから、多用すればそれっぽくなる。シチュエーションはこれが受けるようだから入れてみよう。でも本当にこれで合ってる? ねぇ私、間違ってない?

クライアントは私の書いた文章を「大変クオリティが高い」と褒めてくれたけれど、うれしいというより安堵した。

よかった。これがこの人の「正解」だったのだと。

そして、相手を騙している気がして罪悪感ばかりが募っていった。

本当は全然、あなたたちが作っているもののよさが分かっていないんです。嘘ついてごめんなさい。

そこに「私」はいないんです。あなたが見ているのはただのコラージュです。偽物です。ごめんなさい。

そして書けなくなっていった。それでもドロップアウトするのが怖くて、砂を噛むような文章を量産し続けた。

そしてとうとう、懇意にしていたクライアントからのメールで吐いた。「新規企画のシナリオ執筆をお願いしたい」という内容だった。

それを見た瞬間、押し殺していた感情がどっと押し寄せて私を嗚咽させた。私は慌ててトイレに駆け込んだ。

ごめんなさい。もう出来ません。限界です。あなたの期待には応えられないんです。ずっと私は、あなたに嘘をついていたんです。もうこれ以上はあなたを騙し通せる自信がありません。単価を上げてくれたのに、目をかけてくれたのにごめんなさい。

胃液をトイレの便器に吐きながら、心の中でひたすら謝罪し続けた。

誰でもせいでもない。自分自身が選んだ道だった。

その人が持っている答えなんて、正解なんて、本人以外には分からない。だからそもそも探ろうとしたのが間違いだったのだろう。私がしていたことは、蟻地獄に自分から手を突っ込むようなものだったのだ。

トイレ嘔吐事件をきっかけに私はアダルトゲームから遠ざかり、別の名前で一般向けのゲームや小説を執筆しはじめた。

驚く程に心が軽く、初めて「書いていて楽しい」と思えた。吹雪の中、裸で震えていたのが、春のあたたかな日差しに照らされた原っぱへたどりついたような、そんな心もちだった。

少なくとも関わっている作品は素敵だと思えたし「好き」だと思えた。名義を変えてから初めて参加させてもらったゲームのサンプルをプレイしたとき、感動して本気で泣いた。気がつけば私の手には自分の物差しが握られていた。それはちびた鉛筆みたいにちいさくて、ぐにゃぐにゃの物差しだったけれど。

それからはおそるおそるだけど、自分なりの「好き」を探れるようになった。自分のルーツはどこにあるだろう、なんて考えられるようになった。

褒められると素直にうれしかった。失敗も多かったけれど、次に繋がる財産だと思えるようになった。ぐにゃぐにゃのものさしはだんだん硬くなり、ぴしっと伸びていった。

そして、親交があった知人から再びアダルトゲームのシナリオのお誘いがあった。私がエロシーンを書けなくなったのは知っていたので、サンプルテキスト代わりになる初めてのシーン以外のエロは書かなくてよいという条件にしてくれた。

許可をもらって、いただいたプロットを自分の判断でかなり改変した。こんなこと、五年前の自分なら絶対できなかっただろう。正解ばかり気にして、ご機嫌を損ねることに怯えて、言われたとおりに書いてしまっていただろう。

自分が「可愛い」と思える女の子を書けた。いとおしい、抱きしめたいと思えた。こんな気持ちを抱けたのは初めてだった。

やっと分かった。私は自分が思う「可愛い女の子」が書きたかっただけだったんだ。

結局ゲームはさほどヒットしなかった……と思っていたのだけれど、発売後しばらくしてOVA(今だとODAなのかな?)になった。しかもメーカーから売り込んだのではなく、先方から「この作品をアニメにしたい」と連絡があったのだそうだ。そのメーカーには他に看板シリーズがあったにも関わらず、だ。

コンシューマー移植後は、Vチューバーの番組で紹介していただいた。

私の観測範囲では手放しで褒めている感想には出会えなかったけれど、自分が「これが好きだ」と心から思って投げた球が届いている人がいるんだと実感できた。

最後の最後でようやく、呪いが解けた気がした。

人に見られる場所でものを書くということは、誰かの正解を探る行為になりがちだ。

クライアント、あるいは読者やユーザー。noteであれば公式スタッフ、審査員がそれに当たるだろうか。バズを狙うならTwitterのユーザーも含まれるかもしれない。

誰だって選ばれたいし評価されたい。だからそれぞれのターゲット層が好みそうな題材や文体、構成なんかを「察して」挑もうとする。

けれど皆が読みたいのは「あなた自身」の中の物差しで書いたものなのではないだろうか。

題材や文体や構成は、クリスマスケーキに乗っている柊の葉っぱ程度のものでしかない。飾りだ。本当に味わいたいのは、土台となるスポンジの食感や味、クリームとのハーモニーだ。少々不格好でも構わない。だいたいケーキの味に装飾など関係ない。(ケーキが大好きなのでつい熱く語ってしまった)

そしてその答えを探せるのは自分しかいないのだ。

だってあなたの正解はあなたにしか分からない。そして文章は、生き方そのものなんだとも思う。

物差しは自分の体を通る芯であり背骨だ。背骨がなければ立つことが出来ない。他人の物差しに支えてもらってむりやり立ったとしても、すぐに倒れてしまうだろう。

もし文章で生計を立てたいと思っているのならなおさらだ。器用な人ほどこの罠に陥りがちだと思う。

でも、書けなくなる前に一度立ち止まって考えてほしい。持っている物差しは、本当にあなた自身のものなのかを。











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