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私たち夫婦の記録⑥全部パパのせい

うつ病で休職が決まったものの、ただただ休むのが苦手な私は、悩んだ挙句よく図書館で本を読むなどしながら、今後について様々考えていました。

カウンセラーさん、医師とも定期的に話しているうちに、自分の中で離婚しないとやっぱりだめだという気持ちが出てきました。

そして休職中に、1年前にやった円満調停とは逆の離婚調停を申し立てるのでした。

2年連続2回目の調停は、自分の中で3つ目標を立てました。
(2024年11月現在も調停は続いています。)

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①このまま離婚したら、親権は同居している妻に行く→弱さを抱えるママと暮らす子どもが超心配なので、子供と会う回数を増やしたい。

②妻に、自分の特性や弱さに気づいてもらい、適切に治療をして欲しい

③自分のためだけの調停はしない。パパママ子ども、3方よしの調停をする
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この3つを叶えて、みんなが今後笑顔になるための調停にしたい。
そう思っていたので、離婚するとはいえ、謝るべきところはちゃんと謝って進めようと考えていました。


しかし、初回調停で妻が提示してきたのは、全くその逆でした。

全て夫の責任である。
うつ病の夫に子どもを会わせるのは怖いから面会交流は拒否する。
夫は稼げるはずだから、婚姻費用は年収分しっかり必要である。

などでした。

妻側の弁護士(私は弁護士をつけなかった、お金がなかった)と連絡を取るたび、その日は嘔吐したり泣いたりという日が続きました。

一方、休職期間にはタイムリミットがあり、会社の規定により3ヶ月以内に復職出来ないと退職が決まっていました。
このような状態では、当然医師から仕事OKの診断は出ず、退職が決まってしまいました。

退職した2023年8月は、私にとって忘れられない月になりました。
退職の数日後に、祖母が老衰で亡くなった月でもあります。

私はよくばあちゃんっ子と言われました。
共働きの父母とギャンブル三昧の祖父だったので、保育園の送迎等もばあちゃんがしてくれました。
とてもよく笑うばあちゃんでした。

そのばあちゃんのキラキラした笑顔は、亡くなる3年前から見られませんでした。

(3年前、妻と別居が決まったのち、義父が実家に怒りの電話をかけてきて、ばあちゃんが受電し、一方的に怒鳴られました。過去記事参照)

自分の力不足で妻を守れず別居となり、自分も退職になり、その数日後、ばあちゃんも悲しい気持ちのまま死なせてしまった。

8月はこれらが重なり体調を崩し、ほぼ寝たきりになりました。人生で一番キツかった。
免疫低下で急性扁桃炎になり、首がパンパンに腫れました。唾を飲み込むのが痛くて...喉元に唾がたまると恐くなり、脂汗が出てくるような状況でした。

医師から、ここまで腫れていたら何も食べられていないでしょう、と言われ点滴を数本打ってもらいました。

(ばあちゃんの葬儀の準備を体調不良で手伝えない自分も責めていたので、医師が体の辛さを分かってくれたのにほっとしました。)


ただ不思議と、葬儀の当日だけは体調を持ち直しました。ばあちゃんが、最後くらい顔見せろ!と背中を押した気がします。

その翌日はまた熱が出て寝たきりでした。

そんなこんなで、もっとも苦しいひと月を過ごしたのでした。

私は大きな病気をしたことがなく、これほど辛いことが重なることもなかったので、このひと月で学んだ人の痛みは、一生忘れず持っていたい感覚です。

痛みがわかるからこそ寄り添えるときがきっと来るはず。そのときに活かせるよう、ふりかえっておきます。

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