関心領域を観た感想
数ヶ月前(5月くらいかな?)に劇場に見に行った『関心領域』の感想をつらつら書き溜めていたので、ネットの海に流そうと思います。
以下、手帳に記録していたものの転記です。
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この映画の主役は”音”である。
そう思うくらいにはとにかく全編に渡って鳴っている音が凄かった。
画面に映っているのは幸せな家族のホームドラマなんだけど、徐々に、じわ〜っと、それこそ真綿で首を絞めるように、彼らの周囲で行われていたことが提示されていって、気が付かないことの怖さに身が竦んだ。
例えば、この映画を音を消して見たとして、あらすじも知らずいきなり映像だけを見たとしたら、きっと絶対この映画をつまらない凡庸なとある家族の生活風景としか思えないだろう。
そんな”普通”の暮らしが、アウシュビッツの隣で営まれていたことが心底恐ろしい。
人間は本当にどこまでも悍ましくなれる生き物なんだね。
本編が始まった途端、真っ暗な画面の背後で地鳴りのような音が大音量で鳴り響く。
一瞬それがなんなのか解らないが、それがアウシュビッツの焼却炉の稼働音だと気付いた時、ぞっとして思わず自分の腕を掴んだ。
他にも、素敵なダイニングルームの窓の外から聞こえてくる怒号と銃声、子供部屋の外から聞こえる悲鳴、焼却炉から覗く炎で真っ赤に照らされた真夜中の暗い部屋、フレームの外の地獄が視覚以外のありとあらゆる感覚に飛び込んでくる。
とにかく最初から最後まで「居心地の悪い」作品だったように思う。
ずーっと耳元で、「これはお前の話だ。」と囁かれてるような、正面から指を指されているような感覚が、上映中ずっとしていた。
壁の向こうで起こっている事に気付かないフリをして平穏な日々をただ享受するベス・ファミリーと、私たちはどう違うのだろう?
画面の向こう側で虐げられ、搾取されている人々の存在を、スクロールして一瞬で無かった事にしている私たちはこの映画のお話を他人事とは口が裂けても言えないし、言ってはいけないだろうと思う。
ベス家の父親であるルドルフや、子供たち、家に来ていたおばあちゃんが、少しづつネジが弛むようにおかしくなっていくのを他所に、どこまでも図太い母親がマジで異常で怖かった。
常に忙しなく家中を大股で歩き回っている。
せっかく手に入れた楽園のような我が家での暮らしを手放さないように、隣で起きている事に目を瞑り、耳を塞ぎ、思考をそちらに向かわせないために動き回っているように見える。
しかも、それは多分無意識で行っている事だ。
にもかかわらず、ユダヤ人から奪い取ったコートや化粧品には嬉々として手を伸ばす。「地元の人」と言いながら、ユダヤ系の人を家の中で働かせている。ユダヤ系の家政婦さんが周りでお茶汲みや掃除をしている中、訪ねてきた知り合いと、手に入った”獲物”について自慢しあい、朗らかに笑う様は、あまりにも気持ちが悪く、人間とはかくも悍ましくなれるのかと、映画館の座席の上で吐き気が胸に迫り上がってきたのを覚えている。
ラスト付近でルドルフがナチスのオフィスの階段を降りるシーン。
前触れも無く画面が現代のアウシュビッツ博物館の清掃の様子に切り替わる。ユダヤ人であるだけで自由を奪われ、腐った食糧しか与えられずに、作業のように殺されていった何百万もの人々の衣服や靴が展示されている。その展示ガラスを丁寧に磨き上げる清掃員たち。
映画の中の1940年代と現代が、あの時、完全に繋がった。
ふいに、映像が戻り、ルドルフがぽかんとした顔でこちらを覗いている。
目が合う。
無関心でいる事の罪を犯していないとは、もう誰も言えない。