不完全な美しさ
完璧なものほど美しいという風潮に対して、ふと疑問に思います。
人間なんて絶対に不完全なのに、どうして完璧であろうとしてしまうのだろう、と素直に思うのです。
いや、きっとこれは、今だから思えるのかなと思います。
過去、自分も完璧主義のようなところがあって、理想の自分とのギャップにとても苦しんでいました。どうして私はこれができないのだろう、どうして私はこんなに馬鹿で何もできないのだろう、と、ずっと思っていました。
理想とする像が高くて、そのギャップを埋めるのに必死に藻掻いていたように思います。こんなこともできない自分は価値がないとすら思っていました。肯定感がとにかく低くて、こんな塵みたいな存在が皆様の大切な時間を奪うなんてとんでもない!とか、塵は塵らしく掃除機に吸い込まれます…とか思っていました。自分はゴミクズ以下の存在で、辛うじてプランクトン以上、ミジンコ以下とか謎の事をずっと考えていました。(この例えは今でも謎)
でもある時、人間欠けている方が美しいのでは?と、ふと気付いたのです。
キッカケは些細なことでした。
お気に入りのガラス細工を落としてヒビを入れてしまったのですが、その時に感じた自分の気持ちが、驚くことに「悲しいもの」ではなく、「壊れている方が綺麗」だったのです。
白鳥のガラス細工でした。首の部分と羽の部分にヒビが入ったにも関わらず、ヒビが入っている方が光をよく反射するし、むしろ完全な姿の時よりも美しいとすら思いました。
それと人間の在り方を重ね合わせると、すごく自分の中で腑に落ちる答えに辿り着いたように思います。人間もガラス細工のように完璧な方が綺麗に思えるけれど、実際は欠けている方が美しいんだと自分なりに答えを見つけた気持ちになりました。
他の人は自分にはできないことができるし、自分では考えもつかないような発想をする。自分では絶対にやらないことも好きだったりするし、逆に自分が好きなことが誰かの苦手なことだったりする。自分の「苦手なこと」が自分なりの不完全だとするのならば、その不完全を白鳥のガラス細工のように、かえって美しいものであると思えば、自分の欠点すら好きになれる気がしました。
そんな不完全な塊同士が人間関係なのかなと悟ったとき、始めて自分にかけた「完全でいなきゃいけない呪い」みたいなのが解けました。
不完全でいいんだなって思えた瞬間から、世界に優しくなれた気がしました。
私は、今はやっとポンコツな自分が好きになり始めています。
自分で自分を責めるのって、想像以上に苦しいことですよね…。
少しでも、自分のように辛い考えをしていた人が減って、楽しく生きられるようになれたらいいなと心から思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?