「綺麗事」という化物
基本的には否定をしないスタンスですが、ダメなものはダメ、と、比較的強くハッキリと思っています。人のことを、簡単に他人がどうこう口を出していいものではないんです。
SNSで話題になった、「ポテトサラダくらい手作りしろ」とおじさんが言った事件や、三浦春馬さんの自殺の事件など、巷には悲しい事件があふれています。でもそこで出てくるのは、「綺麗事」と、どこにも有りもしない「普通」の呪われた幻想です。
綺麗事ほど無責任なものはないです。
自殺するほどに苦しんでいる人に、話を聞くことも具体的に助ける気もなく、簡単に「死ぬな」や「生きていればいいことがある」なんて言うのは、率直に言って愚かです。
仮にそんな人たちに相談したとしても、「私、俺には分からない」というスタンスでいながら、いざ追い詰められて自殺という悲しい事件が起きた時、真っ先に「早く相談してくれればよかったのに」と掌を返す姿を見ました。
「ご冥福をお祈り致します」--なんて、言うのは本当に簡単です。
意味が分からない。怒りすら湧きます。というか湧いています。
ぶん殴っていいですか?(ダメです。)
愚かな人たちがそうであることを自ら選んでいる。ただそれだけのことですが、自分で自分のことを顧みた時、自身の姿がひどく愚かでひどく貧しいものだと気付かないのかなと思います。…いや、きっと、残念なことに顧みることもしないのでしょうね。
私は、自分が誇らしい人間になれるように、誰に顔向けしても恥ずかしくない自分でいれるように、日々を生きようと強く思っています。行動がまだ伴っていない部分もあるかもしれませんが、せめて考え方だけはしっかりと持ちたい、とすら思います。
でも、先ほどのような綺麗事しか言わない人たちは、自分で自分のことを恥ずかしいとも思わないだろうと思ってしまうから、そのような人たちがいること自体がとても悲しいです。自分の考えを押し付けて強制している訳でもないですが、自分なりのプライドや在り方で考えた時に、「あなたはそれで本当にいいの?」と思います。私は絶対に嫌です。
でも、あなたは?いつまで無責任でいるつもりなの?
私の友達に、家庭環境で苦しんだ子がいました。
酷く情緒が安定しない親の元で、一度「死ぬかもしれない」と身の危険を察し、警察の元へ駆け込んだことがあります。その時、警官が放った一言が、「お母さんだって大変なんだから家に帰りな」という言葉だったそうです。
どうして、子供というだけで信じて貰えないのか。
親が「普通に考えたら」子供よりも偉くて、ちゃんとしていて、一般的に「家庭」が保たれているように見えたら水面下に潜む部分にまで考えが及ばないのか。……何度も泣いている子供を見捨てるような一言を、吐けるのか。怒りが止まらなかったのと同時に、これが今の日本の一般的な考え方なんだなと絶望的な気持ちになりました。
綺麗事だけで人を傷つけることは容易いし、最悪人を殺せます。
それくらいに重みのあるものだと思ってほしい。そう強く思います。
最近悲しいニュースが多いので、少し真面目に考えてしまいました('ω')
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