深みが増したように感じたUNMANNED2022 無人駅の芸術祭/大井川
もう終わってしまう時期になってしまいましたが、
今年の「UNMANNED 無人駅の芸術祭」の感想をば。
パンフレットを見た時にも感じていて、
実際に作品を見て回ってもやはり感じたこと。それは
作品が地域により深く入り込んだものになっているな
ということ。
例えば、
TAKAGI KAORU氏の『日々の景色は物語でできている』
集落にあるかつて左官屋だった建物に、作品を制作・展示。
その一つは土を素材にしたもので、まるで昔からそこにあったかのような親和性を感じた。
周囲には、左官屋時代に使われていたと思われる道具が並べられていて、その共存も見事に成立していた、というより、どちらが欠けても作品として成立しなかったのではないかと思わせるほどに、共存していた。
そんな身近さを感じさせると同時に、一方で宇宙も想起させるような造形で不思議な感覚を味わえる作品。
さとうりさ氏の『くぐりこぶち』は、竹林のなか一帯を使った作品。
一歩足を踏み入れた瞬間から神聖な空気を感じ、昔からそのように扱われていたのかと思ったら、
今回の制作にあたって竹林を切り開いたと聞いて驚いた。
しかし、アーティストの言葉にあるように「生きものたちのエネルギーが交差していた場所」として古くから何かが宿っていたのかもしれない。
進んでいくと大井川鐵道の線路が間近に迫っている場所があり、産業と自然が近接したこの地域の特性を改めて知らしめてもくれる。
(撮り鉄さんには絶好の写真スポット!?)
この場所を、この場所にふさわしい形で私たちに開いてくれている作品だと思う。
しでかすおともだちの『くもうきはし』の一連の作品は、この地にあるものを題材にし、かつ、地元の人や場所にまさに溶け込んでいると感じられる。地元神社に祀られる〝タカカミサマ〟を具現化させ、地元住民との交流を撮った写真が民家や地元の建物に掲げられているのだが、タカカミサマもこれらの写真も違和感なくこの場所に溶け込んでいた。
写真を辿って行き着く先は、昔からこの地で〝何でも屋〟として頼られていた「さとはちのブリキ屋」。
タカカミサマの使いだろうか、小鳥たちがあちこちに潜んでいる。
次はどこにいるだろうかと見渡すと、茶箱がたくさんあるなとか、これは何の道具だろう?と、いつしかこの場所自体に目が行ってしまう。
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この芸術祭、作品展示は、期間限定。すなわち「非日常」。
だけど、その「非日常」が、地元の「日常」に根付いたもの、「日常」の延長線上にアーティストが異形のものを出現させることで生み出しているものが多いという印象。
普段はないものが出現しているけれど、それがそこに存在していることにあまり違和感を感じない不思議さは、そこからくるのかもしれない。
ここでしか見られないもの、
というよりは、
ここだからこそ見られる、成立するもの
ばかりになっていると思う。
そして、専門的な知識やセンスを持ち合わせていなくても心地よく鑑賞できるのもそれゆえなのだろう。
訪れる人を見ていても、アート好き、芸術祭好きはもちろんのこと、小さなお子様連れの家族や地元のおじちゃんおばちゃんまでいる。
日常の延長だからこそ、自然と垣根が低いのだろうなと思う。
今や、日本各地で芸術祭が行われている時代。
それぞれに魅力的だけれど、
UNMANNEDは特に、土地と作品が一体化している芸術祭だと個人的に感じる。
もはやこ「地域の行事」として、あるいは「文化」として、根付きつつある気がする。
ほんとすごい、の一言に尽きる。
【余談】
こんなふうに〝深さ〟、〝地域に深く入り込んでいること〟を素敵だと感じるのは、自分もそうありたいという、いわば憧れをふくんでいるのかもしれないなと、書いてみて気づいた。
私が今いる場所で、それを成すにはどうしたらいいのか。
これを機に、また考えなければいけない。