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「〝わかり合えない〟が普通」-2020年お盆休み2日目
今日そのものの日記というよりは、先週から今週にかけての仕事の反省を含めて、感じたこと・考えたことの記録。
当たり前のことだけど「自分」以外は「他人」。
自分と違う人。
自分と違う感覚、考え方、価値観を持っている。
親、兄弟ですら、そう。
血を分け、長く時間や環境を共有している場合、似たような価値観を持っていることはあるがあくまで〝似たような〟であって、〝全く同じ〟ではない。ほかの「他人」様に比べたら理解がしやすいかもしれないけれど、それも100%、常に、というわけにはいかない。関係が近いことで逆に「なぜわかってもらえないのか」と落胆が大きくなることだってある。
「他人」なのだから、
「自分」と同じでないから、
わかり合えなかったとして不思議はない。
だったら【〝わかり合えない〟のが普通】と設定してみたらどうだろう。
〝わかり合えない〟が出発点で、それでもわかりたい、わかってほしいから、努力や工夫をする。
もしその結果わかり合えたとしたら、それはすごいことで、
もしわかってもらえなかったとしても、仕方がない。それが普通。
ただ、わかり合うために出来得る限りのことは尽くす、それで良い。
そのくらいの気持ちでいたら、もしかしたらもっと生きやすく、人との関係づくりやコミュニケーションも気負わずできるようになったりするんじゃなかろうか。
そして、わかり合えた時の喜びも増すんじゃないかな。