『この国の不寛容の果てに』を読んで付箋をつけすぎたので少しまとめてみた
映画「ジョーカー」を観た。
アーサーみたいな人が自分のごく近しい人にいても、実際はその人にこんなに感情移入できないだろう。
そもそも気持ちを理解しようとすらしないかもしれない。だろうではない、私はできなかった。
映画の中のワンシーン、アーサーの言葉が私の記憶の沼からある事柄を引っ張り出してきた。
アーサーが薬をもらうためにソーシャルワーカーと面談するシーンだ。
ワーカーが投げかける、とおりいっぺんの質問にアーサーが答え、一応会話のキャッチボールをつないでいく。
形式的に進む会話の中で「僕の話なんて何も聞いていないでしょ」とアーサーが言い放った。表情も態度も、話なんて聞いてない興味もない仕事だから一応質問してそれに答えてもらってるだけのソーシャルワーカーはもちろん「聞いているわ」と答えたけれど。
私もそうだった、話を聞いている風で何も聞いていなかった、説明したところで知的障害者に理解できないだろうと肝心なところを端折って話をして、質問にも適当に答えて。
ああ、ちゃんと話をすればよかった、せめて真摯に状況を説明すればよかった、あんなに訴えていたのにきちんと向き合えばよかった。
後悔してももう遅いけれど、何をしなければいけなかったか、なぜかアーサーの言葉でわかった。そうか、今まで気づいてなかったんだ。。。。
いや、ちがう。心にひっかかってた、ずっと。理解できてなかったのは、ひっかかっている理由だった。
昔の感情の記憶ちょっと前の思考今抱えているグダグダ、いろいろな想いに脳内が占拠されているときネットでこの本を見つけて即購入一気に読んだ
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~序章 私自身「内なる植松」との対話~より
「内なる植松」「内なる優生思想」自分の中にもある。
相模原市の津久井やまゆり園のニュースは衝撃だった。逮捕された植松被告の犯行動機に唖然としたが、自分の中にその思想がひとかけらもないとは言い切れない。
そして序章に書かれている自己責任バッシングの15年。2004年のイラク人質事件の際の凄まじいバッシングも思い出した。すっかり忘れていたが、この異常な閉塞感のある息苦しい感じは最近始まったことではないんだった。もう沁みついてる。
貧困も自己責任。過労死や過労自殺も自己責任。病気になるのも自己責任。また、寛容さが失われるこの国で、凶悪犯罪は減り続けているにもかかわらず進む少年法の厳罰化。多くの人が「自分の苦しみの原因」がどこにあるのかわからないまま、「敵」を欲しがり、叩きたがる。
自己責任の思考は他人も攻撃してしまうが、自分自身もめちゃくちゃに傷つける。不甲斐ない状態にあるのは過去の自分の行動の結果で努力不足・至らなさ、と巨大ブーメランになって跳ね返ってくる。のど元に自分でナイフを突きつけるのと一緒だ。抱えている問題に向き合おうとしても、自己責任で片づける思考のクセがあると問題の根本にたどり着けない。
~第2章 「生産性」よりも「必要性」を胸を張って語ろう~より
熊谷晋一郎さんとの対談の中で語られる言葉の中で特に刺さったのは
いまの社会は「本音」が称揚される一方で、みんなが「本心」を語れなくなっているのではないかと、(中略)
依存症になる人の多くは、背伸びして一生懸命に生きてきて、過酷な環境の中でなんとか自分を維持するためにアルコールや薬物の助けが必要だったのです。そういう人たちが回復のために自助グループをつくって、そこでは自分の正直な気持ちを語ることで回復しようとするのですが、自助グループに来はじめて日の浅い方は、なかなか本心を話すことができない。「ぶっちゃけ......」と本音を話しているつもりでも、すべてがどこかで聞いたような話、受け売りの「コピペ」になることは避けられません。
依存症の回復には「本音」から「本心」への語りの変化のプロセスがあるそうだ。
本心を語るのは難しいという言葉に救われる。そっか、やっぱり難しいんだ。本心を話して受け入れられなかったらと怖いのは私だけじゃないんだ。でもいつかできるようになるかもと淡い希望を持っている。
当事者研究
精神障害などの困難を持つ人たちが、自分たちを悩ませている幻覚や妄想、あるいは依存症や対人関係の問題といった「苦労」を、自分自身の研究対象として、仲間とともに考え探求していくというものです。専門家が与える診断名ではなく、自分自身で自分の苦労に名前をつけ、どうしてそうなってしまうのか研究していくところに特色があります。
マイノリティの方だけではなく、名前のつかない生きづらさを抱えるマジョリティにも当事者研究は有用ではないだろうか。漠然とした不安や不満や焦りをやり過ごして生きるのはとっても消耗する。
「自分だけが損をしている」という被害者意識は、一見得をしているようにみえる他者を排除しようとする排外主義になる。生きづらさや不安が他者への攻撃に転じる前に、弱さや不安や生きづらさを開示して弱音を吐きあい弱さを開示しようという提案に、それが寛容のスタートラインになるのかもと感じた。
~第5章 みんなで我慢するのをやめて、ただ対話すればいい~より
この章の『オープンダイアローグ』はまさしく #もぐら会 で取り組んでいること。もぐら会
は治療の場ではないので、基本は話したいことを話すスタンス。その効果のすごさは私も実体験として経験している。
ただただ聞いてもらえる安心感は自分のよりどころになる。
自分の生い立ちとか家族のことなどを2時間ぐらいかけて話します。そうすると多くの人が、話し終えたときには泣いています。誰しも成長過程のどこかに傷があるものですが、そういうものを言葉に出して、誰かに受容的に聞き取ってもらえたという経験をすると、大きな安心感をおぼえて涙するんですね。そして、そんなふうに受容的に聞き取ってもらえる経験の価値を理解して、他者に対してもそれができるようになるんです。
また、自分の弱さゆえだけれど『ショートカット思考』と『自己犠牲思考』も身におぼえがありすぎて身体に沁みつきすぎて思考のクセになっている。
ショートカット思考
わからない未来への恐怖、怖いと思うときがある。そういうときにこそ、鋭利な理論になびいてしまうことがあります。(中略)ショートカット思考になってしまうと多くの場合、自分がいちばん選びたいものを選んでしまうバイアスにおちいります。
自己犠牲思考は字のままで、自分が進んで犠牲になることで葛藤やジレンマを解決しようとする。心理的には楽。
この考え方から脱却するには、短絡的に逃げようとせず、お互いに向き合って自分の意見を伝え、他者の意見も聞ききってとにかく対話する以外ないのかもしれない。
自己開示は難しいけれど、信頼できるコミュニティの中で、何気ない会話や交流を積み重ねていくうちに自然とオープンダイアローグになっていくものなのかもしれない、とぼんやり考えている。
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