【古代会津の「黄金と朱」】④
■民謡「会津磐梯山」の謎
さて、会津には、あの有名な民謡「会津磐梯山」がある。
しかしその歌詞の意味するところは、よくわかっていない。
少し強引かもしれないが、私なりに解釈してみようと思う。
「会津磐梯山は 宝の山よ 笹に黄金が なり下がる」
「東山から 日日(ひにち)の便り 行かざなるまい 顔見せに」
「小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで
それで身上潰した」
■小原庄助さんの正体
はじめに、小原庄助さんについては、会津の商人説、武士説、塗り師説など諸説あるが、その正体は不明だ。
私は、この小原家とは、代々金鉱を守り続けた一族で、木地師や塗師も集めた大富豪だったと考える。
金鉱では、朱が採れるからだ。
この大金持ちの家に生まれた一人息子の庄助は、幼いころから甘やかされて育ち、しまいには、一族の財産を食いつぶした。
これは、磐梯山の宝による大金持ちがいたことを示しながら、庶民のやっかみも表しているのである。
■「笹に黄金がなり下がる」とは?
これには、2通りの解釈が成り立つ。
鉱物資源に恵まれた会津では、大量に金が採れた。
金山の前身は朱の産地だとする研究者がいることは既に述べた。
朱の原料となる辰砂(しんしゃ)は、古くから、朱砂(しゅしゃ)ともいわれた。
つまり、「しゅしゃ」がいつのまにか「ささ」に変化した。
「笹」は、本来は「朱砂」と歌っていたのだ。
つまり「朱砂に黄金がなりさがる」とは、
朱の下には黄金がたんまりと埋まっている、という意味に解釈できる。
(笹=朱砂説:本邦初公開の私説)
(辰砂 結晶美術館HPより)
一方、例えば、鳥取の「樂樂福(ささふく)神社」は、砂鉄を原料とするたたら製鉄の歴史を伝えるが、当社の説明では「ささ」は砂鉄、「ふく」は、たたらの送風を表すという。
確かに、会津でも、会津郡衙(7世紀末以降)の時代には、砂鉄の収集が行われたというから、会津でも、古くからたたら製鉄が行われていたことは間違いない。
会津磐梯山の「笹」も砂鉄を指すと考えることもできる。
(笹=砂鉄説:わりと一般的な説)
(砂鉄)
■「東山から 日日(ひにち)の便り 行かざなるまい 顔見せに」とは?
東山が「地名」だとすると、会津若松市の「東山温泉」のあたりだろうか。
その南の「朝日鉱山」は、江戸時代に金の採掘で栄え、会津三大金山のひとつだった。
一方、この東山が「東の方の山」のことだとすれば、会津から東の方角には、高玉金山(最盛期の昭和初期には日本三大金山のひとつ)があった。
いずれの金山も、小原コンツェルンの重要拠点だったに違いない。
「日日(ひにち)の便り」とは、おそらく、毎日送られてくる営業報告書のことだ。
金の発掘量や取引条件などの書面を、小原庄助さんはまったくチェックしない。
なにせ「朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した」人物なのだから、ろくに仕事などしなかったのだろう。
しかし周囲にたしなめられ、たまには取引先へ顔を出すかと、面倒くさそうに応える情景が浮かんでくる。
さて、少々妄想が過ぎたかもしれないが、民謡「会津磐梯山」を私なりに解釈してみた。
高寺山の財宝伝説に始まり、会津磐梯山の解釈にまで話が広がってしまった。
改めて思うのことは、旧石器、縄文・弥生、古代豪族の時代から、不思議な歴史を刻む会津の歴史は、その豊かな鉱物資源に支えられていた、ということなのだ。
(終わり)