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【怪談】①すずちゃん
もう寝ないとって思いながらも睡魔に抗って本を読み続けたり、ゲームをしたりしているとき、つまり寝落ちする間際なのだけれど、ふいに耳元で誰かの声がするということがたまにある。
それは男性であったり、女性であったり、知っている人の声の時もあれば、あれ、誰だっけ?という時もある。耳に入る言葉もさまざまで、「M美」と名前を呼ばれるだけの時や、意味のわからない会話の断片だけだったりする時も。
昨夜も遅くまで本を読んでいて、本当は眠くて泣きそうなくらいだったのだけれど、もう少しだけって頑張っていたら、「M美ちゃん?」と、小さな女の子の声。
誰だろう?私の周りにそんな小さな子はいないし、私をちゃん付けで呼ぶってことは子どもの頃の友達かなぁ……?
まあ、誰の声かわからないまま放置するのはいつもの事で、私は歯磨きをしに重い腰を上げた。
……と、その時「ピリリリリリリ!」
携帯の着信音に画面を覗くと実家の母からである。
時間を見ると0時を少し回ったところ。
実際こんな時間に電話など、いい知らせであろうわけがないのだ。
さっきまでの眠気は嘘のようにふっとんでいた。
「もしもし?」「M美、おじいちゃんがさっき亡くなったって……」母は鼻声だった。
おじいちゃんというのは母の父親で確か今年94歳である。
94歳と言えば、一般的には大往生というやつなのだろうけれど、末っ子である母は父親には随分可愛がられて育ってきており、それだけに思い出も多く、やはり死は受け入れ難いことだろう。
母の実家は瀬戸内海に浮かぶ小島の一つにあり、昔はかなり大きい家だったと聞いている。
ひいおじいさんが本家を継ぐ時だったかに、兄弟姉妹に屋敷の一部を分けたり、裏に続く山や土地を分けたりしたので、今はこんなものだという話だったが、お寺かと見間違うかのような門をくぐり、石畳を歩いてからの玄関。コの字型に続く廊下に面した庭園などを見たところ、これって普通に充分お屋敷じゃないかと思ったものだ。
翌日、と言っても日付けは既に変わっていたわけだけれど、土曜日だったので、夫と小学6年生になる息子を伴いお通夜に参列した。
良い声でお経を唱える住職さんの背中越しに眩く輝く仏壇。
それを見るとはなしに眺めている時、ふと昨夜耳元で聞こえた声が誰のものだったかを思い出した。
すずちゃんだ!
すずちゃんは、私が小学校に上がった年の夏休み、この家に遊びに来ていて出会った女の子である。
あの時も「M美ちゃん?」って何度も呼ばれたのだった。
それは今から30年近く前のある夏のこと。
たくさんの人達が本家である祖父の家に集まっていたので、今思えば多分お盆の頃だったのだろう。
坂道を上がったところにある広場でラジオ体操が行われるのだが、祖父の家に居る間は私もそこで朝のラジオ体操に参加していた。
広場のもう少し上の方につゆ草や昼顔が一面に生えていて、あと名前を知らない花もたくさん咲いているのが見える。
ラジオ体操から戻り、朝ごはんを食べた後、さっきの花を摘みに行こうともう一度広場に来てみた。
誰か居るかな?と思ったが、ラジオ体操に来た時に見かけた子ども達はもう誰も残ってはおらず、広場にいるのは私一人だけだった。
花を摘もうとしたら、向こうの方から茶色い犬がやってくるのが見えた。
首輪もついていない犬だ。
「ヤマイヌに気ぃつけよ~」出がけに、おばあちゃんに言われたことを思い出した。
ヤマイヌとは山に住んでいる野良犬のことを言うらしい。
犬は私の方に近づいて来る。どうしよう?
「ひっ!」動けないでいるうちにすぐそばまで来た犬が、私のお尻のあたりをクンクンする。
「噛まれる!」走ったら追いかけてくるということは知っていたので、早歩きをするが、犬はそれに合わせてついてくる。
ポケットに入れていたキャラメルを少し離れた所に投げてみる。
犬は近づき少し匂いを嗅いでいたが、興味がないようで、また私のお尻のそばに来る。
私は最初早歩きをしているつもりだったのだけれど、そのうちに、そんなことをしてはいられなくなって、だんだんにスピードを出し、しまいには全速力で走っていた。
犬は執拗に追いかけてくる。
「ひゃー!ひゃー!」泣いて叫んでも誰もこない。
何かにつまずいて転んだ!
もうダメだ!と思ったその時。
「ギャイン!!」転んだまま四つん這いになっている私の足先で何かにやられたような犬の声が聞こえた。
でも恐くて振り返ることができない私は、そのままの体勢で泣いていた。
少しして、「だいじょーぶ?」と声がした。
ちいさな女の子の声だ。
体を起こしてそちらを見ると、赤いワンピースに白いエプロン、私よりちょっと背が低いくらいのおかっぱ頭の女の子が立っていた。
他に大人は見当たらないし、さっきの野良犬の姿も消えていた。
「うん」
私は年下の子の前で泣くのが恥ずかしいので、腕で涙の跡をこすって、平気そうな顔をして立ち上がった。
「あそぼー?」
女の子は名前を「すず」というらしい。
私もすっかり元気を取り戻し、すずちゃんと一緒に花を摘んだり、植物の茎の筋を残してお互いひっかけて、どちらが千切れずに頑張れるかという遊びをやったりした。
日が上がって来て、「暑いね」というと、すずちゃんは「こっちー」と、脇道の方へ入っていった。
坂道を上がるのではなくて、脇道の方を上がって行く。
道と言っても草木が生えている上をよけたり踏ん付けたりして歩いて行くという感じだ。
すずちゃんは慣れているのか、自分の身長ほどもある草をかき分けてどんどん進んでいく。
だいぶ歩いたところで、ふっと草が途切れたなと思ったら、小高い丘の上のようなところに出た。
汗で髪の毛を張り付けた額やこめかみを涼やかな風が撫でていく。
私は大きく深呼吸をした。
周りを見渡すと小さな建物がある。
建物は赤茶色の錆びた鉄で出来た箱のようなもので、正面には同じ錆びた色の鉄の扉がついていて、触るとざらざらしていた。
分厚い扉は重そうだったが半開きになっており、子ども一人ならそのまま簡単に通り抜けることが出来た。
足元に床はなく雑草が生えていて、天井を見上げると青空が広がっていた。
どこかでカラスがカァと一鳴きした。
中は風が吹き抜けてとても涼しく、白い変わった石や貝殻のようなものがたくさん落ちているので、私とすずちゃんはおままごとをして遊んだ。
太陽が真上に来た頃、お腹が空いてきたので「もう帰るね」というと、すずちゃんは広場まで一緒に来てくれた。
すずちゃんと分かれた後、野良犬と出会った場所を通りかかると、私が投げたキャラメルに蟻がたくさんたかっていた。
そういえば、あの犬を追い払ったのは誰だったんだろう?と思ったが、それよりもすずちゃんと遊んだことが楽しくて、私はそのことを考えながら家路を急いだ。
「ただいまー」「よく遊んできたねぇ。」おばあちゃんがエプロンで手を拭きながら迎えに出てきてくれた。
すずちゃんと遊んだよって、伝えたかったのだけれど、なぜかすずちゃんの名前が出てこなくて、「友達と」とおばあちゃんに言ったら、「よかったねぇ~」とニコニコしていた。
そんな事を思い出しながらのお通夜も終わり、翌日、お葬式の後、大勢の人々に見送られ、おじいちゃんの遺体は身内と一緒に火葬場に向かう。
火葬場はラジオ体操の広場のそばを通り、なおも坂を上がっていく。
「火葬場も遠くなったなぁ」伯父さん達が話しているのが聞こえた。
「昔はもっと近かったんですか?」と尋ねると、「そうそう、俺が子どもの時は、確かその広場のとこを脇に入って上って行ったあたりにあったよ。焼き場のそばで遊ぶなって親父によく叱られたもんだよ」と。
夫と息子は明日それぞれ、仕事と学校があるので、一足先に帰ってもらい、私と母はもう一日泊まることにした。
その夜、母と祖母の居る部屋にお茶を運んで行くと二人が古いアルバムを見ていたので、私も加わった。
おそらく写真館で撮ったのであろう、正装した祖父と祖母。
何か記念するべき日だったのだろうか。
それ以前のものも、正装での写真が多いようだ。
曾祖父のもたくさんある。さすがは本家。
これはシゲオさん、これはヨシユキさん、エチコさん……
祖母が指差しながら教えてくれるのは祖父の弟妹達だ。
「長寿の家系なんやろね。みんなお元気やわ。」と母。
「あ、だけど、一人女の子が亡くなったんだっけ?」
「そうそう、この子。おじいちゃんの二つ下の妹。可愛くて賢い子だったらしいけど、4歳の時にハシカが元で亡くなったって聞いたわ。かわいそうにねぇ」祖母の指が止まったところには、まぎれもないすずちゃんの写真。色褪せた台紙には、「寿々、4歳 誕生日」と藍色の万年筆の跡があり、セピア色の写真の中のすずちゃんは、おそらく赤なのであろう、あの時のワンピースに白いエプロンをつけて、少しかしこまって写っていた。
翌日、私は母と少し早起きして、帰る前にお墓参りをする事にした。
祖父のお骨はまだ家の中だけれど、ご先祖様にご挨拶をするためだ。
日頃から伯父や伯母達が手入れをしてくれているのであろう、石段を上がって目の前に現れたお墓の周りには雑草一本生えておらず、「先祖代々」と書かれた墓石は綺麗に磨かれていた。
手桶からひしゃくで水をすくい墓石にかける。
墓石の側面にはお墓に眠っているご先祖の名前が刻まれており、没年と共に書き込んである「寿々(5歳)」という文字を見つけた。おそらく数え年での表記だろうから、亡くなったのはあの写真を撮ってからそれほど経っていなかったのだなと思うと、堪えた涙が鼻の奥を痛くした。
母と並んで手を合わせる。
「M美ちゃん?」懐かしい声に顔を上げると、少し先の木の陰にすずちゃんが立っていた。
思わず息をのみ、傍らの母の方を見遣ると、母はまだ目を閉じて手を合わせている。
もう一度木の方を向き直すと、そこにはもうすずちゃんの姿は無く、母の「帰ろうか」の声に、「うん」と返事をしたのだった。
これが私のすずちゃんとの出会いと再会の思い出です。
霊感とはおよそ無縁で生きてきたつもりの私だったのだけれど、30年ほど前に淑祖母(大おば)さんの幽霊と遊んでいたことを知って、今更ながらほんとびっくりでした。
この事は家族には勿論、母にも祖母にも話してはいないのですけれど。
でも、いまだに寝落ちしそうになったら、すずちゃんらしい声が聞こえます。
大おばさんと言えども、私にとってはやはり年下のすずちゃんなので、注意されるのは恥ずかしいなと。
だから、眠いと思ったらなるべくさっさと歯磨きして寝るように頑張っている今日この頃です。