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思い出してた、命日だった。
父親の命日だった。
20年と少し経った。
早いものだというかながかった、というか。
気が付くと、
そんなに経っていた。
命日だと昨日も気づいていたし今朝も知っていた。
だけど19時ころ帰宅してから今まで、自宅の中で
思い出したのは今だった。
父が亡くなるまでいろいろなことがあった。
しかしそれは序章にすぎなくて
というのが合うくらい
その後も色々なことがあった。
数年後、弟が知的にグレーだとわかった。
グレーなので大変分かりにくかったが
4年目に更新されない職場を後にするとき
寮の部屋がとんでもなかった
まるで孤独死する人の部屋のようで
当時はネットなどでも見たことはなかったが
荷物が1メートルくらい部屋中重なっていて
なんじゃこりゃあだった。
雪中行軍かと思った。
当時の私は若かったので
親族から、孤独死や自死するような人を出すことがあってはならない
死んだ両親に申し訳ないという
信念のもと
休みの日には弟の元に通い
平日休みの弟と一緒に、私が休みを取って
病院に付き添った。
私の休みはなかった。
それと同時に弟には借金があるとわかり
いろいろと調べて弁護士の無料相談を受け
無料じゃすまないと判断して着手してもらった。
しかも借りた額より親の遺した遺産のほうがおおきいので
このまま目の前のことだけでなく今後のことも考えた対応が必要だろうと思い
通院に至ったのであった。
あの時突き放すこともできたかもしれないが私にはできなかった。
その代わり自分を見失いながら弟の今後を考え対応した。
ADHDやLDかと思ったが
知的障害のグレーゾーンという判断だった。
ひょ…
やっぱり。
祖母は頑として認めなかったが
「小学〇年生の時担任の男の先生に相談したら『〇〇くんは、ふつうです。がんばればできます。』と言われた。」と、25過ぎていくら借りたかわからないのと29.8パーセントの利息(月額です)からいくら払っても減らない借金250万をえんえんと返済していた。
『ふつうです。がんばればできます。』の15年後の代償は家族がとるのである。
どうしようもないので、
その話を思い出しながら歴代の弟。担任をうらんだ。
ちゃんと仕事しろよ。
とはいえ、当時は仕方なかっただろう。
発達障害やグレーゾーンの子どもの存在に焦点が当たるようになったのは
ここ10年くらいであったか。
そういった、わが子のごたごたを、
両親のどちらもしらない。
これを「知らぬが仏」という。
毎年命日になると、セットでこのエピソードを思い出す。
胸が苦しくなるような、ならないような。
いまもし、両親にあったならこう言いたい。
『あんたら、あれでよく逝けたな。』
そしてこういわれるのだろう。
『行きたくて逝ったわけじゃない。』
『呼ばれてしまったんだ』…というだろうか?
そして、
なぜだか、父方の親族は
ここからが命日のオンパレードなのだ。
祖母、伯母、父のいとこ2人。
あの世でも、なにか相談して、決められているのだろうか。
さいごに呼ばれる日だけでなく、
日々の生活の中での、
こうするといいよ、というあの世の人たちの声も
聴きとれるように過ごしていたい。