あと2回寝たら。#2
母との最期の時間のことを、2日連続で書くのはつらいかなあ、などと考えつつ、パソコンに向かっていたところ、リビングのテレビからコマーシャルが流れてきて、それに合わせてご機嫌で歌いだした二人の娘たち。
” 思い出は モノクローム 色を 点けてくれ ”
この類のシンクロは時々ある。
「モノクロームの思い出をちゃんと書ききりなさい」
と背中を押している以外の何物でもない。
では、#1 のつづき。
☆☆
20数年前の今日という日は、
母が亡くなる前日だった。
前日夜に、病院から母の急変の連絡で呼び出しがあり、
2日連続で病院に泊まり込むことになったのだった。
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23時に布団に入り、いや、病院で一日何百円で借りることができる
ゴザに横になり、横になったからと言って、その状況で眠れるわけもなく、2日目を終えようとしていた。
日付がまたいだのかは気づかなかった。
気づいたのは母が苦しそうにしていたことだった。
水を、飲みたがっていた。
体を起こそうとしながら、
緩やかな笑顔で
「水が飲みたい」
ことを、伝えてきたところだった。
母も、酸素マスクに手をやる。
マスクを外す。
自宅から持ち込んだ、魔法瓶から冷たい水を汲み、
手が伸び、口元に運ぶ。
その姿を見つめていたが、
飲む姿を見届ける前に、
母は倒れた。
酸欠になる、と気が付かなかった。
必要だからつけているマスクを外してしまえば
酸素不足になる、ということが
私はわからなかった。
落ち着いて(すべてが終わり)しばらくしてからそのことに気付き
言葉に表せないほど、心の中で自分を責めた。後悔した。
姉とナースコールを押し、
駆けつけた看護師は医師を呼んだ。
その間、
酸素マスクをつけなおしたか、
どうか、記憶にはないが、
看護師がいろいろと対処をしながら
しばしして医師が駆けつけ、
「身体へのこれ以上の負担をかけないために」というような理由を告げながら
「延命はしません」
と、言ったこと、
そして、家族一同で苦しそうな表情の母を、看取った。
母の命は、その日、日付が変わっての44分後に肉体から離れた。
がんによる、多臓器不全。
知人に、死因を説明するのには、慣れるまで多少困惑した。
初めの異常のサインは、胃痛。半年ほどして、おなかが出る。性器の不正出血。
(おなかがでていたときには、腹水がたまり始めていたのだった。あとからの、「そういえば、あのときの、あれは…」という話である。)
原因となる癌は、
胃のスキルス性がんだったのではないかと聞いた。
そこから、子宮がん、肺への転移、手術は不可能であろう。
化学療法。
20数年前と、今の化学療法がどう変化しているかはわからない。
当時は40代のスキルス性の胃がんが、本当にめずらしいと言われていた。
医師の見たて通り、余命半年で旅立った。
母が亡くなった後に、「何のがんだったの?」と聞かれたときには、説明しようとすると、
いつも言葉につまった。
つづく(いつか)
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お読みいただきありがとうございました。