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海が教えてくれること

 先日、何度目かの海に行った。

 行先は、宮戸(みやと)島。島と言っても自動車で渡れる。川を橋で渡っている感覚で島に渡れる。宮戸島大高森にあるホテルに宿泊した。翌日の天気予報は雨一色。家族一同、期待を込めて水着を持ってきたが、天気ばかりはしかたない。神様の領域。夕食では、海の幸とともに鹽竈神社にも御神酒としてお供えされているという、”浦霞“を呑みながらの家族との夕飯は、大人になった自分を再確認する時間でもあった。

宮戸島、知る人ぞ知る。しかし太古の人々からの絶大な人気と信頼を得る土地だったのだろう、縄文の生活跡が残っており、縄文の村もある。宮城の宮に、とびらの戸。宮城の玄関口の役割を果たしていたのだろう。現在は知る人ぞ知るな場所だけど、太古の昔から、非常に重要な場所だったのではないだろうか。興味深く感じている。

 行きたかったのは、宮戸島の月浜海水浴場。まず、名前が、月浜なんてロマンチックでカッコイイ。漁港とちいさな湾になっていて、波も穏やかで子連れには最高である。しかし、今年の海水浴場は閉鎖。残念である。はじめて月浜に私が降り立ったのはいつのことかといえば、30年以上前にさかのぼる。小学3年生ではなかったか。父の案で、母と姉と私と弟と。その後数年間、父が連れて行ってくれた、私たち家族の夏の恒例イベントだった。海に面した町で生まれ育ったものの、漁港や民宿旅館とは縁がなかったので、魚介類は単体でスーパーで並んでいるもののイメージしかなく、旅館のお膳に並べられた、それらの見事な変身ぶりから、元の姿を想像できず、初めはお箸が進まなかった。最後に父が連れて行ってくれる予定の時、たしか姉も私も高校生になっていたと思う。親戚が危篤となり、その夏の海の旅行をキャンセルとなった。不謹慎と思いつつも、あのお膳が今年は食べられないことが残念に思った。そして、それから父たちとその旅館に足を運ぶことはなくなった。
 3年後の夏に、母ががんで他界した。病室で「ウニが食べたい」と言っていたのでスーパーで買っていったという父。しかしスーパーのウニでは病気の母の味覚を満足させることはできず、父はスーパーのウニを差し入れたことを後悔した。そんなことを思い出しながら、私は旬の時期になるべく現地のウニを、母を思いながらいただくのであった。

 父は高校時代水泳部だった。寒い日も、震えながらプールに入って練習したと聞かされた。海水浴に行ったとき、海でおぼれていた女性を助けた話も聞かされた。「たすけてー」と聞こえたから、助けに行った。行きはいいけど帰りは死ぬかと思ったと言う。相手の女性はお礼も言わず去ってしまった(必死だったのだろう)。お前も気をつけろよ、と。そんな父から泳ぎを習ったのは主に海であった。鳥の海によく行った。宮城の太平洋に面した海は、基本的に波が荒い。浅くても、急にピンポイントで深くなっているところがあるから気をつけろよ、と祖父に聞かせられ育った。小学生の頃、海水浴シーズン前に友達だけで近所の海に行くことも何度かあった。当時、遊泳禁止、とは出ていなかったが絶対に膝より深いところに入らなかった。基本的には波が崩れた後の白い泡が流れる範囲の、ひたひたしたところだけである。それだけ、海に入れば引っ張られ、陸に戻れなくなるという怖さを聞かされて、皆育っていた。覚えていないだけかもしれないが、海に面した、私が生まれ育った地元の海岸で、子供が波にさらわれて亡くなったという話は記憶にない。それに、ザッパーンと打ち砕ける波の様子をみれば、感覚的に歓迎されていないとうことがわかる情景であった。だから、海に行って、足を出すこともなく、砂山を作ったり、貝殻を見つけたり、なにか哺乳類の死骸を発見したりして、きゃあきゃあ言って帰宅する、そんな遊びの時間でもあった。そして、家族に「海に行ってきた」と話せば「あぶない」「子どもだけで行くな」「膝より深いところには絶対にいくな」と言い聞かされていた。
 福島県と栃木県の境を源流とし、福島県を縦断し宮城の県南で太平洋にそそぐ、阿武隈川の右岸にある亘理町。はらこめしが有名だ。阿武隈川河口の南に、その鳥の海海水浴場というところがあり、小さいころは日帰りで海水浴に出かけた。空になった醤油の一升瓶に水道水をつめこんでで車で出かけたものだ。海から上がり、さあかえるぞ、とその前に、その一升瓶の中で温まったエコなお湯で、塩水や砂を洗い流すのであった。
 子供の足の届くような高さは波のうち返しで、ときに浮き輪ごとひっくり返る。しかしそのデンジャラスさが面白いものだった。浮き輪さえあれば足が届く海は楽しい遊び場であった。しかし、ある時、浮き輪で浮いて遊んでいると、空気が抜けていき、漫画のようにアップアップとなった。隣にいた父親は、空気が抜けると思っていないものだから、私がヘルプを出していることに気づいていなかった。足が届かないなら沈むしかない。しかし、沈めば息が吸えないので、着地とジャンプを繰り返しながら呼吸を確保した。それでも塩水が口に入り苦しんだ。そのうちいいかげん、父も気が付いて助けられた。「ふざけているのかと思った」と。海に気をつけろといいながらも半分おぼれているわが子に気が付かない父であったが、指導のおかげでクロールは泳げるようになった。その後私はスイミングスクールに通うことなく授業で平泳ぎと背泳ぎを、自力でバタフライを習得した(ビデオを借りて茶の間のテーブルに上半身、下半身それぞれ分習法でビデオ見ながら真似をしたところ、プールでも水没しながらも進めるようになった。)現在は五十肩になりかかっており、日常生活もままならない私であるが。

そんな家族との濃い時間を、たくさん過ごした海。

であるから、いわずもがな。11年前のことは、昨日のことのように覚えている。それから、支援の手を差し伸べてくれた方々とのことも。

父にも、がんが見つかり、母が亡くなったその3年後に他界した。
2011年、父が他界し11年過ぎたところだった。両親を見送るというのは自然の摂理ではあるが、若くしてそれを経験するというのは筆舌に耐えがたかった。じっさい、悲しみのようなものを、だれにどう伝えたらいいのか、伝えていいのかわからないまま、右往左往しながら時間が過ぎていった。
 2011年。復興まで10年というスローガン、10年後がまぶしかった。想像できなかった。2011年からさらに10年経過した、2021年の夏。10年あまりの間に、沿岸の景色は変わっていった。初めて見る人にとって、「これがあたりまえの自然の景色」だと思うだろう。

何かが失われたり、何か目の前からなくなったとしても、覚えている人がいる限り、身に付け習得したものがある限り、消え失せたりはしないのかもしれない。

 宮戸島を訪れ、翌朝の天気予報は外れた。空模様は曇り空、雨がおちてはいなかったけれど、膝くらいまで水遊びをするとしても、肌寒い天気だったので、海辺をドライブし散策して回ることにした。浜辺に降りると、なつかしい海のにおいと、木々に寄り添えば、土のにおいがした。タイムマシーンに乗ったかのように、さまざまな思い出がよみがえるのだった。
 家族旅行の車の中から懐かしいフレーズの歌が流れる。いくつものCMに使われているだけあって、その曲は、子どもたちのなかにも印象よく残るようで、メロディーと歌詞を追っかけるように、一生懸命歌いだす。くちびるを尖らせながら。車のハンドルを握りながら、オットが言うには
 「この人、岩手の釜石市出身なんだよ」
 とボーカルが自分と同郷であることを得意げに話しはじめた。続けて言うには、
 「曲作りを頼んでいた作詞家、妹さんが亡くなったショックで、目の前の景色から色が無くなったんだって…何も書けなくなったと。大瀧詠一は、できるまで待つからと言って。その時亡くなった妹さんのことを書こうと、出てきた言葉で、できた詩で、できた曲がこれなんだって。」
 と、聞いてもないのに。教えたがりな性格。しかし、オットの何の気なしに言った言葉や行動に、4年に1度くらい、私の目から、うろこがおちる。たいていはしょっぱい水の、うろこだ。涙腺がゆるむ、ともいう。私は子供たちが楽し気に歌うその歌詞をググっていた最中だった。歌詞の文面と曲のイメージに、別れた彼女への違和感をつづった夏の曲、の割にはさわやかでなんだかちぐはぐだ、と思って違和感を感じていたところに、そんな話が。曲の違和感が、私の経験の中で、すべて腑に落ちた。
 喪失体験真っ只中は、後悔と現実と願望の間を行ったり来たりしながら、自分を見失ったりもする。自分を奮い立たせるために、亡くなった大切な人を悲しませないようにするために、明るい気分を保持しようと努めることもある。そういった、喪失による矛盾が良くあらわされている。歌詞と曲のすべてに。

私たちの会話の裏側で、子どもたちの声も交えバックミュージックが続く。

“思い出は モノクローム 色を点けてくれ”

いつか家族と過ごした時間が、思い出にしか残らないときがきても。   今の時間の流れや環境が変わってしまって、たとえ昔に戻りたいと強く思う日が訪れたとしても。
きっと、海は海のままでいるだろう、私たちの生活の中に。記憶の中に。
(縄文の村を見学してますますそう感じた。)

悲しみの中からでも、素晴らしさの創造は可能でもあると。
子どもたちが熱唱する、オットの同郷であるボーカルの歌う歌詞をスマホ画面に追いながら。

私にとってのモノクロの思い出が、カラーに変わった。
未来のモノクロ部分もカラーバージョンに。オールカラーだ。

阿武隈川の河口の砂浜、宮戸島のそして実家近くの松に囲まれた林の中の香り、それらをどこかで思い出しながら

生きててよかった、そんな瞬間のことを、これから家族との時間、海での時間のなかのことを、書こうと思います。


宮城の地から、トビラを開けます。


「open sesame!!」(開けゴマ!!)



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