ソメイヨシノ VOL.2
「みわこー」
ようやくカンバスに最初の緑をおいたとき、後ろで声がした。岡田宇宙(おかだそら)だった。宇宙はこの三月まで実環子が担任していた生徒で、宇宙に限らず、実環子の生徒は実環子のことを呼び捨てにする。実環子は、何い?と間のびした返事をした。そして、時計が五時半を回っていることに気づいてつけたした。
「まだ帰ってなかったの?」
「ムトーがみわこのこと探してたよ」
宇宙は、そう言うと、実環子の前までひょいときて可笑しそうに笑った。
「何考えてた?」
「林檎のこととセックスのこと」
実環子は答えた。夕暮れは桃色橙から、桃色薄紫(ももいろうすむらさき)にさしかかろうとしていた。
「ムトーの顔、腫れてたけど…?」
宇宙は実環子の真後ろに椅子を持ってきて腰かけながら実環子に訊ねた。同僚の武藤芽衣子は愛しあう行為の果てに、小さな傷をからだのあちこちに印している。
「わかんないけど、多分つきあってる人なんじゃない」
そこまで言って実環子は、ねえ、ちょっと近くない? そんなに近づくんなら、ドア閉めてよ、誰かに見られたら変に思われるじゃない、と宇宙をたしなめた。宇宙は素直に、そっか、と言って扉を閉めると、そうなんだ、ムトーも色々あんだなあ、でもみわこ、それちょっと冷たくない? と言いながら戻ってきた。
「だって本人たちにしかわからかないことあるのよ」
実環子は少しパレットに絵の具を足した。
「そういうもんかなあ」
宇宙が、いまいち納得できない表情を見せたので、
「そこにはアイデンティティとアイデンティティの一線があるの」
パレットの上の緑を溶き油で混ぜながら実環子は言った。
「なんだよそのアイデンティティって」
と、つぶやきながら宇宙は、あたりまえのように実環子の腰に手をまわして言う。
「みわこのおっぱい、また触りてえ」
「そういうの、もうしないの」
実環子は、宇宙の手をほどかずに答えた。
🌔栞珈琲 at Bis!!> 6月の開催は1日木曜以外の土日!
📣来たる6/1(木)に「ソメイヨシノ」が発売になりますが、
その日はイーディー中島桃果子が女主人している根津のお店ーの4周年です。(なので栞珈琲が神保町へ行けないのだ)
来週の今頃には「ソメイヨシノ」が全編kindleで読めるのだ!
では来週!