第26話 ✴︎ 「"商い”から”POPな救済”へ」By"イーディ/InnocenceDefine”✴︎2024✴︎
いつもこの時期になると「今年のイーディはこんな感じだった」という”月次まとめ”みたいな記事を書いておりますが、それはまた近々するとしてまずはこちらご覧ください。
「商い」から「POPな救済」へ。
これの補足をnoteでしたいなと思って今記事を書いている。
というのも「POPな」をつけているとはいえ「救済」などとおこがましい言葉を目標に掲げられるようになった背景には、この言葉の一見真逆とも思える言葉「自己犠牲しない」であるとか「線引き」であるとかの真意を理解するという大きな課題を今年1年かけて乗り越えつつあるかなということがある。「救済」が自己犠牲の上に成り立っているうちは「真の救済ではない」のだ。自己犠牲の上に成り立つものごとのバランスは常に儚く、いつ崩れてもおかしくない砂の城が、なんとか摩耗と疲弊というネガティヴなエネルギーを吸ってその形を保っている状態になるんである。
例えば。女主人のわたしが毎日「思いやり」という見えない梨を、そこにいるお客さんの数だけ均等に切り分けてカウンターにおくとする。
するとその見えない梨を悪気なく「皿ごと食べる」人がいる。「救済」の観点からそれを見た時に相手を(あまり傷つけたくないな)と思うと、次にわたしがすることというのは自分が栞と食べるためにとっておいた梨をカウンターに差し出すということである。自分たちのための梨とは、時にお金であり、時に時間であり、時に休息である。それが皿ごと食べる人のために差し出さずにいられなくなり、自分はまだ自分だけなら良いけれど犠牲を払わされる一番の人間が、わたしが一番大切にしたい栞になっている現状や、わたしから梨をもらえなかったにも関わらず「いいよいいよ」よ言ってくれる大事な常連になってしまっている本末転倒ぶりに、自身がいたたまれなくなる。そしてもっときついことは「皿ごと食べている人」に「人の分も食べている意識」や「誰かに譲ってもらっている自覚」が全くないので、
わたしや店を傷つけていることにも気がつかないし、
ましてや店や梨を譲ってくれている他の常連に対する感謝もなく、
その人はひたすら暴君になってゆく。
これを許容していることは優しさではないし、相手に対する「救済にもならないのだ」ということを、今年ようやく学んだ、大変意味のある2024年だった。
脱、自己犠牲。
これがきちんとできるまでは誰かを救済する資格などない。
それが実感としてわかり始めたところで福祉に携わる万規子さんのこの著書を読んだので、自身がやっていることが「飲食店経営」という顔を持った別のものであることにも気づけたので(そういえばお客さんの方が直感的でウチを「イーディホスピタル」とか「駆け込み寺」とか読んでいるよなと思い当たる)いいタイミングで出会えた本だなと思う。
わたしは児童書育ちの小説家で何事も「物語ありき」のタイプだからいわゆる「自己啓発系」の本はとても苦手なので、書いたのが知り合いじゃなかったら読もうと思えなかっただろう。これもまた奇なるタイミングである。
ともあれわたしはこれを読んで「福祉の現場における従業員の自己犠牲をいかになくすか」という課題と我が店のそれを非常に客観的に重ね合わせることができたんである。そのおかげで自身に対してもっと追い込んでより自己犠牲的になってしまうかもしれない選択を回避できた。
見えない梨はちゃんと均等にみんなに配られないといけないのである。
そして自身と栞のためにとってある梨をわがままな誰かに絶対に差し出してはいけない。なぜならそれは「救済」ではないから。
「商い」の観点からこれを読んでいる人はきっとニーズが大きい人からはそれなりの報酬もらったらいいんじゃないと思う人もおられるかもしれないのだが、それをサラッとお金に変えて請求できないから本質的に「奉仕体質」であり「尽くし」タイプなんである(性格は承認欲求強めのカリスマぶりたい系に見えると思うが実態は結構違うんだな)。
だからこれをうまいことサラッとお金に変えて無茶をやっている人に高額請求をできる人は素晴らしい「商人(あきんど)」である。
そして自分が「商人」気質ではないことをゆめゆめ自覚した2024年であったという話である。
(冷静に考えてみれば「生き死ぬるもの双方に光を与えよ」という天啓について10年間答えを探し続けた探究者が商人になどなれるわけがないのだ)
そこらへんに関しての考えのグラデーションの経緯に関しては本日いまからまた「宵モカ」を更新しますので、そちらご覧あれ。
ちょうど去年の「酉の市」の翌日から始めた女主人の今宵営業振りっ返りYoutube「宵っぱりのモカ」も何気にコツコツ続けて1年が経とうとするところ。すごく熱心に編集して更新しているのに「チャンネル登録お願いします!」という気にならずにただただ「動画的ひとかどアーカイヴ」としてきたところもイーディの運営を「商い」だと思っていたので、
その女主人奮闘記が誰かにとって有益かどうかというと有益でもないだろうと思っていたからなのであるが、今後スタンスが「POPな救済」になってくれば内容は変わらなくても「どこかで誰かに響くかもしれない」と思うことはできるので心が啓くことによる波及の仕方はまた変わってゆくだろうなと思っています。ただの振り返り動画でありながら「そうでもないぜ」というところへ意義づけて行きたい。
まあそんな感じで「商い」から「POPな救済へ」2025。
POPなというのは「大衆的な」の意味合いが一番強いかな。
思想的宗教的になりたくないという気持ちもそのフレイズに込めている。
目的がはっきりすることでエネルギーの重心もまた変わってくるだろうしSNSでの発信の仕方も変わってゆくと思う。
例えばインスタグラムのフィードに関しても
「商いをしている飲食店」のフィードであれば「今日のおすすめ」や「新入荷のリカーの告知」など飲食店利用者にとって有益な情報だけを流すのが良いわけなので「宵モカ」の更新告知や栞がやっている音声コンテンツの紹介や、ましてや「女主人がラジオに出ました!」というお知らせなど、
飲食店利用者には「不要極まりない」ものが混じっているのって、
「何屋かわからんから来店しにくいよな」と思っていたんだが、
まあ端的に言うと「珈琲を出してくれる寺のようなもの」
「酒と飯があって宴ができる神社のような場所」というスタンスが、
きちんと表に表現できていれば「救済」にまつわる投稿が日々いろんな形でフィードに現れ、そこに「今日は美味しいカレーがあります」「プリンが大人気」などが混じっているという世界観は割とすんなり利用者の心にはまるんではないかと思う。
いやいやでも間口はサラッと「入りやすい飲食店」にしといた方がいいやろうと思う方もござりましょうが、
なんかこのようなソフトな間口で入ってきてもらったとしても夜の1階は、
濃いメンバーでカオスの日もあるわけなので、サラッときた人がじゃあまた来たいかといえば微妙(2階で過ごして貰えば大丈夫)なので、
だったらいっそ「一階のL字カウンターはなかなかの雰囲気らしい」と、
仮に昔の「新宿ゴールデン街に行くような気持ちで」来てもらった方が、ダメージ少ないんじゃないかという気もしている。笑。
どちらにせよ目指すのは「POPな」救済であり、
昭和初期のサロン的な雰囲気も宿したいわけなのであるし、
何よりわたしは天才小説家なんですから、なんか素敵な文章を考案して、
来年度もしくは年内にプロフを更新したいと考えている。
(アーカイヴないのですが共有できる方法をまた万規子さんと相談してSNSで投稿しますね。共有できなかったらごめん)
そんなわけで11月ももう中旬を過ぎ、明日にも冥王星が水瓶座に到達、
向こう140年?ほどに及ぶ風の時代が本格到来いたします「冬の入り口November」どうぞ心を、貴重品よりもお忘れなく〜