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月曜モカ子の私的モチーフvol.218「ララバイオブミー」 文 ナカジマモカコ

※ここはnoteですが小説家FBのつもりで書いています。

今日、実は自分のための「小部屋」を1つ増やした。そのことで何か、心のつかえがふわっと溶けて、この場所でもこれまでより素直になれる気がする。

「小部屋」というのは何の事はないTwitterの新しいアカウントのことで、
全くもって誰かにフォローしてもらおうとか「いいね」をもらおうとか、思っていない、むしろその逆のアカウントである。
なのでTOPに固定した投稿にもその旨を明記した。

なぜこの場所を作ったのかということについてはこちらに明記した。

そんなにもクローズにやりたいんなら鍵かけるか手帳に書けば? 
と思う人がいるかもしれないけど、それはまた違うのである。
何が違うかというと、当然わたしには既に、それよりさらにクローズドなことは手帳に書いているし、もっと形をなした文章は、こことか、小説に書いている。でもそこからふと「零れてくる」何かしらのフレイズを、待っている人が1人でもいるかもしれないと考えた場合、わたしはやはり「発信」を放棄はできない。
どこかに「わたしも同じこと思ってた」とか「わたしも同じことが苦しい」と思って生きている人が「なんだ、おんなじこと思ってる人がいるじゃん」って思って救われてくれるかもしれない、その1ミクロンの可能性を、
わたしはおこがましいけどいつも信じている。だから小説家をやっている。
けれども毎回その呟きをフォロワーの600人を誰も不快にさせずに呟けているのか、ということになると、当然自信がないし、当然そんなことはありえない。

そういう意味では新しくアカウントを作ってもそれは意味がないのかもしれないけど、でも「フォローお願いします!」「わたしを知ってください!」始まりで開設したアカウントと「誰もフォローしなくてよいので」という入り口で始まるアカウントは、わたしはきっと意味合いが違うだろうと思っていて。

小説家、中島桃果子のTwitterはそもそもはやっぱり拡張目的で、Twitterそのものを始めた2010年? 2011年? 頃は、まずは友達と繋がって、その後知らない人だけどフォロワーが増えてって、みたいなことが楽しかったし、そうやって世間に知ってもらうことが目的だったように思う。だからそういう方向性と発信によってフォローしてくれた方に「こっからは超個人的なこと呟いていきますんで、面倒ならフォロー外してください」って言うのもさ、勝手な話じゃない? って思っていた。

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なんていうか、2009年にデビューをしてから12年間もの間、
ウィキペディアには載っているけれども「さほど売れていない」という曖昧な立ち位置による苦しいこと、が、本当にたくさんあって、
きっと今年、それがわたしの限界を迎えたのだろうと思う。

つまりウィキペディアに載り、大手出版社からいくつも本を出した段階でわたしは”文化人”であり、パブリックな人である。つまりわたしから放たれる全ての発信は、パブリックなものとして世間に受け止められる。

その「パブリックな人なんやから」と言う「圧」、同時に「パブリック」として振る舞った時の「たいして売れてもないくせに誰気取り?」という「圧」が同じ分量でわたしに乗っかって来ていて、
なんだかとてもしんどくなってきたのだ。
つまり友達や知り合いを中心に展開されているアカウントではないゆえ、例えばわたしの個人的な投稿など「クソどうでもいい」上に「こいつもう何年も本だしてないしフォローしてる意味あるのかな」と思いながら、ここでフォロー外したら、もしかこいつが化けた時に「これまでのダルイ時間の元がとれんじゃん」って思っている出版関係の人とかも、600人の中には絶対いるわけで。(ネガティヴになっているのではなく客観的にそう考えている)

じゃあそういう人も読むよねーと思った時に、それでもめげずに繰り返し言ってるけど「わたしの新作最高説」とかを実は本当のところ発信するのにエネルギーがいる。ゆえにそういうひとからしたらどうでもいい「THE YELLOW MONKEYのマニアックな名曲について」とか、懇々と語る勇気が出ない。そうなるとどうなるかというと、1日のツイート数を数えたり時間をあけたりすることで、誰かのタイムラインに上がって来てもうざくない分量か、吟味しながら呟くことになって、なんていうかもう、もはやなんのために呟いてるんだろう、と思うし、でも誰かのためだけにTwitterやってる訳じゃないし、みたいな気持ちが混濁して、それでもめげずにイエモンのことを連投してみて、そしてそのことに疲れたりする。笑。

何をやってんだ、わたしは。

そう思う。笑。

今日は本当は朝からジョー山中の「ララバイ・オブ・ユー」のことが呟きたかった。

イエモンの吉井さんが作る楽曲には、当然”グラム感”があるのだけど、
その”グラム感”には、海外のグラムロックだけでなくて、ジュリーの「君をのせて」的なあの感じや柳ジョージの「青い瞳のステラ」的な、日本の歌謡曲がもつ、独特のカタルシスがあるよね、と思っていた話。
あ、それはもちろん吉井さん本人が自伝で語っているんだけど、
おとといWOWOWでやっと観た「パンチドランカー」という伝説のライブツアーのドキュメンタリーのラストで、ステージに上がるまえの吉井さんが「これは横浜で聴くと全然違うね」って言いながら「ララバイオブユー」を流すシーンがあって、そのシーンはドキュメンタリーの中でもとても大きく扱われ、ほぼまる1曲が流れる(監督がよく理解しているんだろうこのバンドのことを)のだから、そのね、ララバイオブユーを聴きながら、横浜アリーナの千秋楽に立とうとしている吉井さんの景色が、当時1999年で、もちろん”THE グラム”って感じの化粧と出で立ちにも関わらず、すごくジョー山中にマッチしていて歌謡曲な感じがあって、なんだかすごく腑に落ちたこと。

でも、なんか呟きたいのに呟けない気持ちになって。

同時にその日は、巷では完売している串田さんの「真冬のバーレスク」を観に行く日で。演出をしている串田和美さんはもとより、そこには秋本奈緒美さん、草光純太さん、と、全部で3人も知り合いが出ていて。わたしは純太さんのお客さんがキャンセルになったから急遽観に行くことができたのだけど。で、奈緒美さんも純太さんも素晴らしかったから、いつも「ねじリズム」に対して「めんちゃん(石川シン)天才か!」とか呟いているノリで呟きたいけど、なんかそれが「芸能人に知り合いがいる話」みたいに曲解されないかな、とか「売り切れチケット入手の話?」って取られないかな、って思ったら何も言えなくなってしまって
(まじSNSに不向きだよね、よくそれで12年やってたよね。笑)

それでわたしはその場で即座に新しいアカウントを作った。

まあそういう話です。笑。

(つか、めんちゃんこそ芸能人だけどね!笑。ここは近すぎて...)

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ララバイ、ってどういう意味なんだろう、って調べたら、
ララバイって「子守唄」なんだね。

だから今日はタイトルを「ララバイオブミー」にしてみた。

わたしのための子守唄。

もうあまり怖がらずに、っていう。笑。

新しい小部屋できたんだしね。

♩生きることは〜愛する〜〜〜こととぉ〜〜〜
覚えていてぇ〜〜〜欲しいのさぁ〜〜〜

先日わたしが「月モカ」に戻ってきたこととそれは似ている。
ここのページはそういう記事が週1で上がる前提のページだから。

わかって「いいね」してもらえている安心。
それは小部屋Twitterの前提と似ている。

(あ、ごめんなさい、そうじゃなくてこのページの投稿に疲れてる人はフォロー外してね、それでいいから)

まあ、そんな感じで、ララバイオブミー。
また来週も、更新できたらするね。

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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。
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