月モカ!!vol.284「降って湧く話」
「あなたに降りてくる言葉は、宙から降ってきてるんじゃないと思うよ。あなたの周りに水がこう、たゆたうようにあって、そこにもともとあるっていうか……湧いてきてるんだと思うよ。だからもともとあなたの中にあるものだと思うよ」
南滋賀でこの言葉を聞いた時に非常に肚落ちしたというか、自分が湖や泉のようなところに”ぽよん”と浮かんでいて、自分が雨のように降ってきていると感じていた言葉たちは、水たちが引き合って呼応している現象であって、つまりは降ってることと湧いてることは同じなんだという感じがビビビ!としてから(降って湧くんだ……)(降って湧くのか……)
(降って湧くんだなあ!!!)と「感!」した時に、
なんか待てよそんな日本語あったよなあと思いあたって、改めて調べる。笑。
なるほどそかそか「降って湧いたような話」とかって言うもんね。ここ数日わたしが反芻していた引き合う水のイメージとはまた違う言葉の意味に一瞬バグが起きたが、ある意味言葉が降りてくる(湧く)時は「思いがけない物事が突然起こっている」状態だからこれはこれで正しいのかもしれない。
ただ自分的な意味合いはちょっとだけ違うので今回のタイトルは「降って湧く話」とする。
その日、帰省がてら南滋賀に寄ったのは来たる大野百合子さんとのとある対談に備えてであったが、行く前からなんとなく「エッティラ」というタロットについて取材するというよりは、その研究者の方から何かを授かった方が良いのだろうなという感じはしていて、なので学者さんのようなその女性が使われているマルセイユタロットというデッキ(これを扱っているかたをわたしは生まれて初めて見た!)で自分をみてもらう時の質問は最初から決まっていた。
ここのところ人には言えない深刻な悩みを自分は抱えていて、人に言えない理由は「頭がおかしい人だと思われるから」であり、抱えている悩みというのは、お店を5年やって獣的な五感が鍛えられたせいか『感じる力』が強くなり、強くなったにも関わらずそれが「誰から」「どういう目的で」放たれたメッセージかわからないがゆえ、扱い方がわからず自分の魂と肉体がいつも接続先を探しているWi-Fiの扇のようになりつまりはひどく電池を消耗し、信じられないような長時間の睡眠を必要とする。ともすれば手を離した風船のように空へ飛んでいってしまう魂の疲労と停滞を三次元的な重力で支えるべく、体重はどんどん増え、同時に確信を持って言えることは「この体重の増加はスピリチュアルWi-Fiと関係があって年頃案件とは関係がない」というものだった。
ただ本当に思っていることを人に話すと「妄想的空想的」な感じに聞こえるし、その雰囲気は経営者&女主人として6年目にさしかかる自称商売人としてはよろしくないので、なんとかこの現象を他者に納得してもらえる言語はないか考えていて、そしてその言語はやっぱり、見つからないのだった。
例えばある晴れた朝に、明け方まで締め作業とかをして(なんだよもう太陽が昇っちゃってるぜ)とか思いながら帰宅しようとすると、この子ら↑が
(たまには朝陽を浴びたいよ、だって1階はさあ陽の光が入らないんだぜ)
みたいなことを訴えている「気が」する。
実際は聞こえないのにその訴えを聞いたような気がしたが最後、それをやり遂げないと、どこかから来た誰かの大事なメッセージをとりこぼすような気がして、わたしはせっせとこの子たちを陽に当ててから帰宅する。
まだ「そんな気がする」程度の時はまだいいのだが体の中で言葉が鳴るときが半年に一回くらいあって、それは耳を通してないだけでわたしには完全に「聞こえた」状態のものであるから(幻聴とは違う、鐘のように内側から鳴る)またその言葉を発した差出人について考えその意味について考え、現実的なタスクが何も終わらない中、やるべきであろう儀式などに明け暮れて陽が暮れてしまう。先日は周年の日、根津神社に参拝に行って帰るとき、表参道から右に折れたところで「わたしだ、開けなさい」という声が聞こえた。
誰か高貴な人の命令に近い言葉で、わたしに向かって放たれた言葉ではなく、どちらかというとわたしの前で閉ざされたドアに向かって後ろからその存在が言った。
つまりわたしの毎日というのはそういう「なんだか見えない相手」との対話に追われているわけで、それらをこなしながら一般的な日々の営業および店の運営を並行してやらねばならんわけで、おまけに自分は小説家なわけだからエッセイも書かねばならんし、なんかつまり3世界を一緒くたに生きているような感じでもうヘトヘトなのであって、うっかりその見えない相手から送信されたメッセージについて考えていると気づけば火曜の朝になっており「月モカ」を落としてしまう。そんなこんなだからわたしの毎日は”全く”回っておらず、そのことが実のところ誰にも言えないキツイ悩みなのだった。
いっそのこと霊感があればいいのに。
”なんとなく”感じてしまうだけで全ての実態や出元(ソース)のようなものがはっきりしないからあれこれ考えて疲れてしまうし、霊能者でもヒーラーでもチャンネラーでもないからそれらメッセージの「扱い方」がわからず「これでいいのか」いつも不安なんです。
それでなんとなく不安や心配をぬぐうように何かを食べて安心したい感じになって、そしてまた太るわけなんです。元女優志望の美人作家気取り&水商売はある程度見た目が大事、な世界で長く生きている自分は「太る」ことが地獄より怖いのに(自身が自身のみをルッキズムでジャッジすることからわたしは一生逃れられないので)、そんなわけでどんどん太ってしまう。
「これが小説の中の言葉だったらいいんですよ。小説の中の言葉だったら全てに確信を持って扱えるのに、暮らしの中で降りてくるので、もうどうしていいかわからないんです」
そう言ったわたしに彼女はこう答えたのだった。
「なんで分けて考えるの? あなた小説家でしょう? 小説家が女主人やったり店のことしたりしてるだけなわけで、書いてる時以外も小説家でしょう?
だったら暮らしの中でいろんな言葉が降るっていうか、あなたの中に湧いてくるの、それってごく普通の現象なんとちゃう?」
これはわたしには目からウロコであって。
ただそういえば23歳で初めて「JUNE」を書き始めたあたりから日常の中に降りてくる、湧いてくる、ふと浮かんでくる言葉や映像はその時書いている小説のためのものであり、別段疑問に思うことなく、その時々の原稿用紙に納めてきていた。
そこからデビューするまでの数年間は自身の日常と、日常の中で生まれる副産物を小説あるいは物語のようなものに納めるという趣味が常に暮らしと同じ分量であって、デビューしてからの数年はもはや「言葉待ち」くらいに締め切りがあって(知名度はなかったが今から思えば売れていたんだな)
2016年〜2019年までの絶筆期間も神楽坂のタウン誌の連載と毎週上演している「小芝居仕立てのジャズライヴ」の戯曲を新しく書きおろす作業があって、降って湧く言葉やイメージの数々は思い返せば疑いもせずに暮らしを揺蕩うことなくすぐに原稿用紙の上に落とされてきた。
そういえば店を初めてからのこの5年だけが「いまはコロナで休業やから小説を書いたりクリエイティヴなことをしていい時」と「いまは経営が厳しいから女主人&経営者として店のことだけしなくてはいけない時」と雨季乾季のようにシーズンでわけた暮らしをしているのだった。その創作的乾季の時期にも言葉の雨が降る(いや湧くとしようか)からは逃れられず、ただ自分がそれを「いまは書いている小説がないので」小説的なものではなく第六感的な何かかと思って、原稿用紙の中にではなく暮らしの中に反映しようとして、そして言葉は暮らしを揺蕩い行く場所がなく、納めどころに困ってわたしは四苦八苦していたということなんだろう。
特に最新最高傑作「K192」(「棄ておかれたものたちの物語」に改題するかも)が、デビューした時の賞より小さな賞の下読みで落ちたあたりからは「いま全く小説で稼いでない」わけなので小説は趣味、生活を支えてるのは店なんだから、女主人業をまず優先、月モカとフードの仕込みであればフードの仕込み優先と考えてこの1年くらいを過ごしてきた。
出版界にとって透明人間であれば自分はもう「小説家ではないのかもしれない」わけだから、小説家を名乗る自分を疑うところからやり直すことにしていた。
「いやいやそうでなくて、何で稼いでるかとか、収益をどこから得てるとかとかじゃなくて性質(たち)の話をしてるねん」
彼女は言った。
「カードは裏切らないという前提で話をするとさ、あなたはね、あなたが小説家であるということから一生逃れられないと思うよ。あなたがどこで何屋をしていようとあなたの本質はそもそもは水の人。もはやこんだけカップが出るんやから水の質なんはほぼ間違いなくて、それはあなたが何をしてようがあなたについてまわるのよ。ほんでこの位置にこれがおるから、あなたやっぱり小説家なんよ。あなたは、シンと澄んだ鏡のような水面に月を映す人。それが役割」
女教皇にカップのクイーン。そういう意味では誰からどう見てもあなたはそうだからね、そういう意味では誰かから見られる側の人ではあるんやと思うし、でもまあ特に問題はないと思うよ、あなたが女主人とか店の!とかってやってても人はあなたをそう(水面に月を映す人として)見てるわけやしね。笑。
なるほど。この数年間、以前よりも年々強く、輪郭をもってわたしの肉体を鳴らしてきた言葉やわたしを沈める映像のスクショは「かなたからそなたへのモールス」ではなくて「ものがたりの切れ端」だったんだ。
だったら箱にいる全ての置物と語りあったっていいし、箱そのものの言い分を、店の仕込みを後回しにして聞いたっていいし妄想的空想的な暮らしをしていたっていい。真冬に夏の小説を書いて「今日暑いですね」と編集者に電話してしまう江國さんのように。「2階のロバが今日は酒を飲みたいっていうから」とロバに酒を飲ませて開店が5分遅れても、それらが物語作家という生き物であり、つまりわたしは女主人をしていても経営者をしていても常に「小説家という状態」なのである。
極めて空想的妄想的な、異世界と常に接続している、状態。
(なあんだ)(なあんだ!!!)
わたしがこの「マルセイユタロットと女学者の日」にいちばんホッとしたことはなんだと思いますか。それは、
(あの日に日にはっきりしてくる映像や言葉やモールスの数々は神とか何かしらの存在からの啓示じゃなくて物語のきれはしだったんだ!!!)
ということです。笑。
だって物語の”端きれ”なら。
それつまりは第六感じゃなくてインスピレーション!!
(なんかエスパーマミみたい!笑)
第六感の扱い方わからんけどインスピレーションの扱いならよくわかってる。それら全部を色別し原稿用紙の中に納めて、
小説ないし小説的なものにすればいいんですもの。(松谷みよ子さん調)
切れ端または”はしきれ”を集めて物語を作ること。これはわたしの、いっとう得意なことでありました。シェフがどこかのお家の冷蔵庫のあまり物で、あっという間に三ツ星レストランの献立を作ってしまうように。
物語の切れ端をどう扱えばいいかに関して、
中島桃果子は誰よりも天才なのでした。
そして小説家という生き物には、別に出版社から依頼がなければ書いてはいけないという決まりなどないのでした。魔女が頼まれなくとも金曜以外はいつだって魔法を使っていいように。
「あなたエッティラを学ばないとって言ってたけど何も学ばなくていいと思うよ、その感じで好きなこと喋ってたらいいと思うよ。笑」
帰り道でその言葉を反芻してわたしはふと、自分を「エッティラの研究者」と言っているけど実は学術的に研究をしてるかと問われたらそうではなくて、自分の好きな「エッティラの絵柄」と何か新たな知識という「要素の掛けあわさった泉」をただ見つめ空想の深遠に降りてゆき、その水面に「自分なりの解釈」という物語の月を映して語っていただけだったんだなということに気がつきました。なるほど。わたしは一つも研究など、していなかったんだな。だからあの人は「勝手に喋ったらいい」って言ってくれたんだな。なぜなら小説家は”うそこ物語”を語っても面白かったら許される唯一の職業だからです。
つまりこのエッセイも”うそこ物語”ですので彼女のセリフなどは「わたしにはそう聞こえた」だけで事実とは違うのかも知れません。
なあんだ!別に頼まれて小説を書いてなくても「小説家というタチ(性質)の人」ということで生きてていいのね!だったら解決!笑
・・・ということで今日を皮切りに下半期は「月モカ」を欠かさず投稿してゆくことにします!ちょっと店のルーティーン上、火曜の方が都合いいかもしれないのですが週1で何よりもこちらを優先にしてゆくことにしましたゆえ皆様楽しみにしていてください。
<月モカvol.284「降って湧く話」>
※月モカは「月曜モカ子の私的モチーフ」の略です。
📣そしてそしてそして!!!
出版界に干されてた感じの小説家のわたしのはずですが、
ここへきて超ビッグなニュースがございます!!
画像にもテキストが入っておりますが、なんとなんとなんと!!!
来る7月10日(水)にわたしのデビュー作「蝶番」と現在やってるお店”イーディ”の名前の由来になった小説「誰かJuneを知らないか」の電子版が
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ぜひこの機会に初期の中島桃果子をご堪能ください!!
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☆モチーフとは動機、理由、主題という意味のフランス語の単語です。☆このページを通じて繋がってくださっているあなた! あなたの「いいね!」はわたしの励みになっています、いつもありがとう。