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月モカ!!vol.287「節食と徳について」

どうも。本日は九月の最終日で、本格的な減量を始めてからちょうど35日である。分かったことは40代での心身ともに健康な減量、ひと月で終わりではなく目標体重まで数ヶ月かけてコツコツ落とすには「おそらく月2キロ」が適切なんだろうなあという感じ。そして若い頃やっていたダイエットというものは常に急激なもので「ある一定期間」怒涛のようにやってまた元の生活に戻すというやつだったと記憶しているが、このお年頃でのダイエットはダイエットというよりも価値観改革に近い、
つまりは「生活習慣やスタイルの見直し」であり、20代から特に意識しないまま日常の中に取り込んできてしまった「よくない習慣」からの卒業であるんだなということが段々分かってきた。

つまりこの減量には終わりはないのだ。「あの坂を登れば、海が見える」(by向田邦子)というものではない。終わりはないのだからそれを暮らしの日常にしていって、おそらく目標体重になった時(このペースだとおそらく年が明ける頃か?)には「やったー!ダイエット終了〜!」って感じではなくて、そもそもそのダイエット時の食生活が新しい日常になるのではないか、そう思ってる。そして先日わたしはこの暮らしを「節食」と呼び「節食」は徳を積むことであるから、すなわち「運気を上げる行為」であると知り、
俄然やる気になったのでございます。

9月になりようやく「遊休資産」であったガレージでストレッチなんか。

そもそも自分は元女優志望であり、長く水商売——スナックやラウンジの類——で働き、また時代の酷さも相まって、かなり長い間「ルッキズム」の病と共存して生きてきたように思う。「せっしょく」という言葉を聞いて自分の方に馴染みがあるのは「節食」ではなく「摂食」であり、
かつて1時間ごとに体重を測らないと気が済まなかったり、
顔がむくんで見えたら絶望的な気分になって家から出れなくなったり、
ひどい時には食べたものを吐いたりなんかして、他者から浴びせられる「ブス!デブ!」(それはいつしか自身が自身へ浴びせるの罵倒になる)の中で20代を走った自分としては「ダイエット」などを今再び行うことこそ「病への出戻り」ではないかとひどく恐れ「だったら太っていた方がいい!」というような感じでここまできたのだが、先日何処かでマインドチェンジがあり(今のわたしの心はあの頃に比べて随分成熟して強くなったのだから、またあのモードに戻ることは100%ない!)という気に急になって、
その日から店のお客さんにも「わたし7キロ痩せますさかい!」と宣言することもできた。宣言とかは心に圧がかかるので絶対できないと思っていたけど「絶対痩せるし大丈夫」って感じになった。

(この動画の後半のところでそこら辺のこと語っています)

なのでまずこれを読んでいるあなたが「節食」ではない方に悩んでいたならば、まず「節食を徳」と思う必要など皆無だし、運気を上げるためにそれに取り組む必要はない。そもそも多くの人が何の疑問も持たずに楽しんでいる「食事」というものに苦しみが伴うという日常を送っているだけで、あなたは十分「苦しみについて向き合う」という修行を積んでいるのです。

まず大切なことはこれ。

で、45歳になり十分な大人になったわたしは、
病に出戻りせずひと月で2キロ痩せることができた。実際のレポとしては最初にググッと1,5キロ〜2キロ落ちて、それがこう「戻ろうとする」というのかな。節食しているのに体重は増えていたりとかがあって、久しぶりのお客さんに「見て〜モカコさ2キロ痩せた!!」とかって言ったら他のお客さんが「それ2週間前から言ってるよね」って笑っていたりして、
つまりは2週間ほどは頑張っているのに停滞があり、そこに新作の執筆があって脳内CPUのためには「焼肉弁当」を注入せざるを得ない、という大きな壁もあったのだが、そこで精神的に不安定になることもなく、その「凪」の時期をうまく過ごせた。

そしてこの「凪」の時間を情緒不安定にならずに心安く、かといって投げ出さずに決めたことをコツコツやって、多少の怠惰さを発揮してしまったとしてもそれを「一貫の終わり」などと思わずまた翌日から修正する、という地味な作業が「全ての仕事」「全ての暮らし」に通ずるものやなと、大きくハッとしたんである。これはなかなか、店も小説も、思い描くようなババン!
とした結果を出せない時期が長く続いているわたしにはいい修行だわ。
しかもこの修行だけは頑張った分痩せて綺麗になるんだからこんな良いことはない。笑。

とある日の銀座(2024)

でなるべく心を平らにすべく銭湯の塩サウナで整ったり、
借りたまま不良債権と化していたガレージで日々ストレッチや瞑想をしたり(瞑想というのがどうも得意でなく、坐禅を組んだまま空想してしまうのだが、とりあえずそれでよしとしている)、Youtubeでも仏教やマインドアップ系のものを見るように心がけて、つまりは自分自身を抜本的に改革しようとしているのだが【なぜなら新しい小説を書き終えてとあるところに送ったわたしが結果を待つ間できることは”徳を積む”それしかないから】

【徳を積もう】と思って積むのは【徳】ではないらしいのだが、とりあえず細胞レベルで理解できないうちは見よう見まねでやるしかない。
そんな時に都市伝説系の「ミルクティー飲みたい」さんの最新動画がちょうど今自分が取り組んでいる節食にまつわるものだったので惹かれて観て、
なんか色々腑におちた。なんかここままじゃ人生変わらないぞとりあえずます「痩せるか」という直感は正しかったんやな。
「イヤイヤ痩せるより小説やろ、痩せるより他にやることあるやろ」っていう理屈を吹っ飛ばすだけの意味があったんや。

で、肝心なのはこの動画というよりは江戸時代に生きた観相学の大家である「水野南北」さんのお話および彼の生き方そのものなので、noteユーザーの皆様は活字の方がいいかもなのでこちらも貼っておきます。

わたしが一番「なるほどなー」と思ったのは、
「なぜ節食が徳となるのか」という部分で、よく考えたらめちゃめちゃ当たり前のことなのだが「食しているものは全て地球の生命」であるからというのが理由で、当たり前すぎてうっかりしていたけど、そう考えたら「食べすぎていいわけない」わけなのだよね。
でももう一つの「せっしょく」の病の中にいる時は病のせいで満腹中枢とかが壊れて極端に食べれなくなったり食べすぎたりするわけなんで、そんな時にこんなこと言われたら「じゃあこんなクズなわたしは死にますね」って追い込まれたと思うので「なっるほどな〜!!」ってなれた今の自分にまずわたしは大きく感謝しているのだ、脱・病。病から脱したのは30代手前だと思うがそこから再発を恐れてダイエットが怖かったわけやから今こそ根治、という感じだね。

そうかそうか「生命」をいただいている以上それを慎む、これ「徳」ですね。

そこから【徳】というもの自体について考え始めて【徳】には誰にも目にみえる良きことをする【陽徳】と誰にも知られずとも良きことをする【陰徳】があり【陰徳(いんとく)あれば必かならず陽報(ようほう)あり、陰行有る者は、必ず昭名有り】(人知れず徳を積めば、必ず良い知らせがあり、陰ながら良い行いをする人は、必ず名誉が得られる)という言葉があることを知った。

けれども問題は「良い知らせ」のためにそれを行うのは「徳」ではないということだな。むつかしいよね。見返りを求めずごく「普通」にできることじゃないといかんわけだな、掃除であるとか、節食であるとか、他は何だろうか。現状「酒を慎む」を思いついている。

栞が捌いた太刀魚の刺身。

よく考えると酒って誰かに対して「良くぞ飲んでくださいましたありがとう!!!」っていうような効果をもたらすことってないよね。笑。
(酒場的バッカス的にはよく飲んでくれたら商売的には嬉しいけど、大酒飲みだけど全然酔わずにやらかさないって人はいないから・・・)
そう思うとお酒も慎んだ方が周りの人のため世界のため自分のためなんだろうなと思いつつ、わたしはやっぱり「人間くささ」みたいなものも重んじているから「なまぐさぼうず」ならぬ「なまぐさ女主人ウェルカム!」みたいなところで放浪小説家女主人やってるので、突然酒まで断つことはできない。笑。同時に「減量」という視点において一番の大敵が酒であることもこの35日でわかったので——酒そのもののカロリーではなく飲みすぎて次の日二日酔いで寝て終わるから体重も減らないし生産性もないという意味の——10月の減量生活は「節食」に加えて「減酒」にもトライしてゆきたい。
筋トレと同じく、少しづつ負荷をかけていく。

そしてたまにはこんな感じで、餃子食べたりなんかするよ。

節食してからもう、口にするものが全て美味しいわ笑。

<月モカvol.287「節食と徳について」>
※月モカは「月曜モカ子の私的モチーフ」の略です。


脱稿したので10月は木曜も23時からお店に出ます〜
電子書籍は絶賛復刻中です〜♩


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