『たんぽるぽる』読書録
普段はInstagramで読書録に短歌を添えて投稿しています。
先日、読んだ『たんぽるぽる』についての覚え書というか、Instagramの読書録には意味のはっきりわかる短歌をピックアップしたので、ほかについても考えたことを書き残しておこうと思う。
というわけで、意味のはっきりとしない短歌を中心に全12章からそれぞれ一首ピックアップしてみました。
ぬいぐるみが動くことはないし、部屋から出ることもない。たしかにもっとも旅から遠い存在であることは間違いない。ぬいぐるみの中に見る「旅」性についてはまったく思い至るところがない。容易には表面化し得ないものを見出す過程に「旅」を当てはめているのか。
そういう意味ではぬいぐるみでなくてもいいかもしれないし、著者にとってはぬいぐるみ以外にはあり得ないのかもしれない。
村上さんと何かあったんでしょうか。
しかし、仲直りのとっかかりとしては斬新すぎる。
春の雨との関係性も気になる。
字余りの最後の「七」はイ段が連続していて、少し早口に言いたくなる。
早口で言うと、急いでる感が出る。
もはや、仲直りの口実なんて何でもいい、善は急げ、ということか。
かなり例外的な食事に「可能性」を見出すあたりが面白い。仮に一風変わった趣味嗜好の人間がいたとしても、それが何か別の「可能性」を保証することにはならない。
ただ、一方的にこちら側が寛容さを強いられるだけ。
まぁ、害がなければ、とやかく言うようなことでもないけれど、そういう意味では寛容さは短歌をおもしろくするためのひとつのヒントかもしれない。
比較的、意味を想定できそうな短歌だけど、好きだったのでピックアップ。
二人で暮らした過去の想い出に浸る短歌。
せまい家での特定のエピソードに想いを馳せるのではなく、ただ空間だけに着目していることで、かえって特異な短歌になっているように思います。
いや、特定のエピソードがないってことは、想い出ではなくただの妄想かもしれない。
時制を考えても妄想が有力か。
そうなると途端に危険な匂いがする、あまり深入りしたくない事案なので、回想として理解したい。
これこそわかりやすいけど、好きだったので取り上げてみた。
当然のように存在しているものに対して疑問を持たないことを、あえて大袈裟に皮肉る短歌。
未来の「好き」が形になるまでの想像と、過去に身近だった存在の消滅への「郷愁」が交差している。茫漠とした未来に対して、過去が極めて具体的で、その対称性が素敵です。
たぶん意味としては、雷雨で騒がしい日に食べたカステラ、というそれ以上でもそれ以下でもないんだろうけど、それにしては表現が飛躍し過ぎている気がする。
一本ずつってことは、例えば修学旅行から帰った翌日の休みなどを想像する。
みんなお土産にカステラ買っていて、どこの家庭も今日は家でのんびりカステラ食べながら、旅行先の長崎の話でもしてるのかしら。
轟く雷鳴をカステラが柔らかく吸収してくれる気がするから、子どもたちはしばしの安心感を得ている。
『ウォーリーをさがせ』でも、視力矯正でなんとかなるような問題ではない。まして、現実の地位や名声の話なら尚のこと。
眼鏡の要否はともかく、「おれ」の野心は健全ではない形で肥大化しているような気がしてならない。
大穴で、「きみ」は眼鏡が似合ってないよ、眼鏡外したらもっと素敵だよ、ってメッセージもこもっているかもしれない。
おそらく、自分の食欲を冗談めかして肯定した短歌なんだろうけど、にしても飛躍している。
その結果、するめを擬人化して話しかけて、排泄後の未来に想いを馳せる。
するめ愛を完全に倒錯している。
「黒飴を噛む」と「裸」、どちらを比喩と捉えるかで意味が変わる、昔の和歌の掛け言葉のように二重の意味をもたらす技法が垣間見える。
黒飴を噛むという日常のなんでもない景色の中でこぼれたパートナーの本音を「裸」と例えたのか、
「黒飴を噛む」つまり特別に美味しいわけではないものを噛み締めるかのような顔で裸の人が叫んだところを見たか。
前出の「黒飴」の短歌のように、比喩的に理解しようとしても、この一首は難解です。
「夜更かしと早起きのあわい」というと夢現の間でしょうか。明け方まで夜更かしして意識がはっきりとしないときに、豆腐か犬かわからない何かに想いを馳せたのでしょう、という雑な想像しかできない。
もうなんのこっちゃ。
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