アメリカに住む人の日常はどういう世界なのだろう---「フルートベール駅で」「ドゥ・ザ・ライト・シング」を見直す。
自分の街を歩いているだけで濃厚に死の危険を感じる。おそらくそれがアメリカに住む黒人の日常なのだろう。
ミネアポリスで白人警官に無抵抗の黒人の市民が殺された事件。 もう何回目なんだろうか、と思うのだけど、また起きている。
教科書で見たキング牧師やマルコムXの活動。映像でなんども見ているロサンゼルス暴動。ここ数年の「Black Lives Matter」のデモ。本で読んだ知識はあるし、アメリカの白人の一部に根強い差別意識があるんだな、ということはわかる。でも、なぜ何も変わらないのか?
アメリカに住んだこともないので、実感としてわからない。なので改めて「ああ、これがアメリカに住む黒人の日常なんだな」と強烈に思わせてくれる映画を見直してみることにしました。
すぐにはわからない。でも、簡単に理解してはいけない。だから、映画を見て戸惑うのが理解への道筋のひとつなんではないかと思っています。
有名な映画ばかりなので観たことがある人も多いと思うのですが、このタイミングですべて見直してみると、今アメリカで起こっていることが、すこし身近に感じられるようになるんじゃないかなと思います。
父親としての日常が突然、警官からの射殺で終わる意味を消化できない・・・「フルートベール駅で」
最初にこの映画をみたとき、結末が有名な「白人警官によるオスカー・グラント三世射殺事件」につながっていくのだということを、映画の途中で忘れていました。
それくらいに、ついてない男のブラブラしている様子を、優しい眼差しのカメラが追いかけている、そんな微笑えましい、温かい映画だったから。その男が父親として不器用ながら「いい人間になろう」と空回りしている、これはちょっと「マンチェスター・バイ・ザ・シー」をみたときの感じにも似ていて、愛おしさすら感じてしまう男の物語だなと思い始めていたのです。
が、突然の銃声。映画としては、これから明日に向かって、少しいい人間になった男が足を踏み出す、希望のあるストーリー。それが突然、終わってしまう。
ああ、そうだ、これは理不尽な映画だった。アメリカに住む黒人たちは、このような普通に考えたら消化できないような理不尽といつも背中合わせで生きてるのだ。前に踏み出そうとした瞬間にわけも分からず死んでいる。そのプレッシャーとはどんなものなのか?
例えば、戦争に駆り出されて死んでしまう。犯罪に巻き込まれて死んでしまう。それなら納得というか、なにか消化できる。でも、この新年の花火の直後の射殺はまったく消化できなくて、映画を見たあともまったく意味がわからない不安な状態から抜け出せなかったのを強烈に覚えています。この強烈に不安な状態が、アメリカの権力の下でマイノリティーとして生きる前提なのかなもしれないと思った次第。
ただ、きわめて優しい映画です。それだけに怒りと不安の後味が強烈なのです。
怒りの矛先が韓国系の店にまで行く、下町コメディのはずなのに一瞬でむき出しの怒りが現れる---「ドゥ・ザ・ライト・シング」
この手の映画ではルーツと言ってもいいかもしれない「ドゥ・ザ・ライト・シング」。改めて見直すと、やっぱり全編のほとんどが下町コメディ。例えば、大阪の明るいアンちゃんが、東京の下町にきて起こすドタバタ劇くらいの雰囲気でストーリーが進んでいく。
見た人はわかると思うけど、ラジオ・ラヒームやバギンといった黒人側の強烈なキャラクターも、おもろい大阪の"あんちゃん"のような扱い。その"あんちゃん"たちと地元のイタリア系のファミリーとのドタバタを、主人公のムーキーが、「┐(´д`)┌ヤレヤレ」といった形で収めていく、なんだか朝ドラのような展開。
これが、大阪と東京の話だったらどんなに良かったことか。
スパイク・リーの映画ではそうはいかず、ちょっとした住民の軋轢が警察沙汰になって群衆を巻き込むのだ。「男はつらいよ」で言えば、寅さんとタコ社長のいざこざに、いきなり警官が出場。寅さんを絞め殺す。意味がわからない。
そんなカオスまで1つ間違うとすぐにたどり着く。そんな危うさをスクリーンに映し出す。1つの商店街で長年くらしている人たちが、シャレでじゃれ合っているように見えるのに、そこに警察という公権力が踏み込むことでいきなり"抜き身"での対峙になる。そんな日常の恐怖をこの映画のクライマックスは教えてくれる。ほんわかしていても、常にお互いの首元にナイフを突きつけている状態なのかも、アメリカの人種問題は。そんなふうに思える映画です。
人種問題の"抜き身"で向かい合ってるプレシャーというのはおそらく、黒人と白人の間だけではない。警官に黒人が殺されたときに、ものすごく怒りを表し、パトカーを叩いているのが韓国系の商店のオーナーなのだが、その直後、この韓国系の店もぶち壊そう、と暴徒の標的になるさまを描いている。
つまり、白人による黒人への差別、迫害という問題をこえて、異なるアイデンティティーへの排除、暴力が常に一触即発でアメリカには存在しているんだということをスパイク・リーは教えてくれている。
韓国人のオーナーは、ラヒームが警官に殺されたことに怒りを表す。でも、黒人の怒りは韓国人のオーナーにも向かう。黒人の不当な扱いを糾弾するだけでなく、なぜアメリカの社会は異なるアイデンティティー間の「怒り」を、警察という「公権力」をもって助長させるのか、いつまで煽るのか?そういうことに対して怒っているのかなとこの映画を見ていて感じるのです。スパイク・リーは「白人」に怒っているのではない。なぜ、こんな愛すべきコミュニティーに「怒り」を持ち込む社会体制になっているのか?そのことに対して疑問を唱えているじゃないか?
最新作の「ブラック・クランズマン」でもそれは明確で、メインキャストの白人と黒人はバディなのです。でも、その間に「怒り」を埋め込もうとしている組織、個人がいる。それってどういうことなんだ?という疑問が、「ブラック・クランズマン」でも出ていたような気がします。
あ、ちなみに「ドゥ・ザ・ライト・シング」の背景になっているニューヨークのクソ暑さは、今のどこにも出れないコロナの環境に似てるのかなーとも思ってみたり。あと、カラックスの「汚れた血」の感染病のようなものじゃないかな、と思っていたり。
ほかにも黒人の命は大切であると直接教えてくれる映画はたくさん。
この2つが、自分にとっては今のアメリカの状況を知るために重要な映画なんですが、ほかにも黒人差別、黒人と白人警官をテーマにした映画、ドラマは、それこそ映画の大古典である「国民の創生」からはじまって無数にあるのですが、配信などで見やすい最近のものを何本か。
『ビール・ストリートの恋人たち』
「ムーンライト」のバリー・ジェンキンスによるこの映画も理不尽がごく普通に生活にまとわりついている。若い夫婦の夫が、ただ白人の警官に睨まれた、それだけで無実の罪で主人公が収監されてしまう。それがなければただの美しい恋愛ストーリー。理不尽がつきまとうためにさらに二人のストーリーが美しくなる。
とくに撮影がジェームズ・ラクストン、音楽がニコラス・ブリテルの「ムーンライト」に引き続きのコンビなので、ここ数年の映画として、ずば抜けて"美しい"印象の映画に仕上がっている。
でも、そんな理不尽に立ち向かわないと、普通に夫婦・家族としての生活を送れないのか? ただ、黒人としてアメリカに生まれただけなのに。そう思うと映像、音楽の美しさと相まって、どうしようもなく切なくなります。個人的には去年でベストの映画。
『デトロイト』
これはストレートに黒人の命が蔑ろにされる事実をえがいた映画。「ハートロッカー」のキャサリン・ビグローの映画なので、とにかく緊張感がエグい。とくにクライマックスの20分。壁に押し当てられた黒人と、彼らに銃を突きつける白人警官。ここでの黒人が、まさにディストピア映画で憲兵に捕まり尋問をうける"迫害されている市民"たちのよう。そういったSF映画で家畜のように管理されて、人権を剥奪されている人たちのように見えるのです。
つまり暴動が起きている1967年のデトロイトは、非常にディストピアなんだなとこの映画を見て思ったのです。でも、このディストピアは、今も続いている。黒人として現代のアメリカに生きるのはディストピア社会で下級市民として支配されているのと同じような感覚なのではないかと、この映画をみていると感じてしまいます。
最後はテレビドラマ版の『ウォッチメン』
アメコミ界において最重要な漫画『ウォッチメン』の後日譚にあたるテレビドラマ。ザック・スナイダーが2009年にとった映画は、原作コミックの意訳映画化だったが、こちらは原作の持つ設定をそのまま拡張して現代に移したもので、原作ファンにはたまらない作品になっている。すべてを語ろうと思うと、また膨大な量になるのでここでは一点だけ。
このドラマでの原作の拡張の一つが、K.K.Kなどの白人至上主義自警団が中心となって起こした現実の黒人虐殺事件をドラマの起点にしている点。これはアメリカのひとにもあまり知られてないようなのですが、現実にオクラホマ州のタルサで1921年に起こった事件。黒人に対する警官/白人自衛官の100年にわたる攻撃の発端が背骨になっている。
注目したいのは、ドラマの中でキーになる白人至上主義団体が黒人同士を闘わせて根絶やしにしようとする「サイクロプス計画」。この計画にはハンドサインがあるのだが、このハンドサインが「ホワイトパワー」を表すハンドサイン(OKサイン)と同じなのだ。サイクロプス(1つ目)ということで、Oの部分が目で、広げた指が角に当たるらしい。
白人至上主義、人種根絶やし、警察に加わるスーパーヒーロー。どう考えても2020年の現在ではエグいノンフィクションだろうと思うのだが、いま、黒人のデモ隊に暴行を加えている白人警官が「サイクロプス計画」「ホワイトパワー」のハンドサインを実際に使っている。
このエグいフィクションが、アメリカで生きる黒人の現実。
もちらん、アラン・ムーアファンとしてすごく楽しめるドラマなのだけど、それだけでない、いやそういったアメコミのドラマ化以上に現在のアメリカの問題を目の前にパラレルワールドとして繰り広げてくれる。
「ウォッチメン」。荒唐無稽ではない、現実のアメリカと背中合わせのドラマになっているので、いまのアメリカの日常を知るためには必見なのではないだろうか?
いずれにしても、まだまだこういったBlack lives matterを題材にした映画はこれからも数多く作られるだろうし、まだ見ぬ名作もたくさんあるはず。
ちょっとこれを機会に古いものからどんどん見ていきたいなと思ってます。
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