「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」、日本人にも肌感の強い映画になってきた。
「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」を見たのでメモ。
例えば、普通に大学に入れたり、アパルトヘイトがなくなったり、オバマ大統領が誕生したり、なんとなく、アフロ・アメリカンを取り巻く状況は時代とともに「良くなってる」と思ったんだけど、この映画を見るとそうでもないんだなと。
まるでテンプレートのように、邪悪な白人警官がいて(もちろん、個人間で邪悪のグラデーションはあるけど)、理由もなく、ごく普通に生きてる黒人を殺す。帰ってくれ、息ができない、話を聴いてくれ、という要望は通らない。公権力が殺す。
まあ、よく聞く話。どテンプレート。これが抽出されたドラマではなくて、実際の話に基づいていることに、気が重くなった。
同じように気が重くなる「フルートベール駅で」で描かれるのは、20年以上前のこと。キャサリン・ビグローの「デトロイト」は1967年だから50年以上の前。「キラーズオブフラワームーン」とか「ウォッチマン」で描かれるタルサ暴動は100年以上前。まあ、描かれる内容は何も変わってない。むしろ、「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」は不快な事実が積み重なって伝統芸能の域に洗練された黒人虐待なんじゃないかと思うくらいだった。
でも、だからこそ、こういう映画を作り続けて、観続けて、粘り強く、さりげなく個人でいい方向に向かっていかないといけないんだろな、と改めて思いました。
映画としては、テンポやカット割りが良くて、スリリングな舞台劇を見ているみたい。この監督の映画、次もみたい。ポール・グリーングラスが「ブラッディ・サンデー」のあとに「ボーン・スプレマシー」撮ったような展開になると嬉しい。
あと、とても演劇的だったので実際だれか戯曲にしてくれると面白そう。
まあ、こんなことが言えるのはこれがアメリカの問題だからなんだと思う。でも実際こういう公権力と弱者の問題は、日本でも頻繁に目にするようになってきたんじゃないかと実感する。
入管の問題ってまさにこの力関係だな、と思うし。「牛久」とか「マイスモールランド」みたいな映画も、もりもり出てきてるし。
実際、「フルートベール駅で」を見たときよりも、見終わったときの肌感が強かったし。
https://shueisha.online/entertainment/172281?page=3
日本の映画もこんな事やってないで、粘り強く「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」みたいな映画を作ってほしいなと、偉そうにも思ってみました。
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