悪夢ではなかったあの日
あれから13年。
あの時、
天井から吊られた照明が落ちてくるのかもという恐怖や、建物の軋む音、潜った机が自分ごと大きくずれたこと、今でもその五感をはっきり思い出す。
あれから九州や北海道、北陸などで大きな地震が起き、それぞれで大きな被害を目の当たりにした。それでもなお、あの地震が霞むことはない。
あの時僕は中学校2年生だった。地震の後の授業はすべて取りやめになって、日ごろの避難訓練や集団下校なんかは忘れ去って帰れるやつは今すぐ帰れと言われたことを覚えている。
言われるがまま家に帰ると棚は倒れ物は散乱していた。
すぐに片づけたいところではあったけど、その間に余震があるかもと頭をよぎり、テレビをつける。そこに映し出される光景に戦慄した。
その瞬間、僕の暮らす東京西部は震源地からはるか離れた場所であった事を悟った。
扉や窓を開けたままにして避難経路を確保しなければとかぼんやり考えていた思考を、津波が塗り潰した。
黒く禍々しいものが街を、田畑を、線路を、人の営みが飲み込まれていくその映像を見た時、率直にこれは夢かと思った。
あの日、首都圏では交通網が麻痺し、多くの人が帰宅困難者となった。
その日の夜のニュースは帰宅困難者が列をなす都心や昼間の地震の被害についての情報が多く流れた。
悪夢であれば良かった。
多くの人が口には出さないけれど、確実に思うそれに僕もまた同意だ。
だが悲しいことに悪夢と信じたいそれは3月11日だけではなかった。
福島第一原子力発電所事故。
あの地震とは切っても切れない存在である、もう一つの悪夢。
被災地、いや日本、いや世界にとっての衝撃であったそれは日本を含めて多くの国のエネルギー政策の転換を促した。
だが今、混迷を極める世界情勢の中で理念だけでは生き抜けないのもまた事実だ。
原発のリスクを知ったうえでうまく付き合うしかないというのが実際のところなのかもしれない。
だが、水素爆発で原子炉建屋が吹き飛ぶ映像は忘れることができないと思う。
僕が中学に上がった時、阪神淡路大震災を知らない世代と驚かれたものだけど、東日本大震災を知らない世代もまた、中学生になる。
関連死を含めた死者・行方不明者は2万2200人以上。
命は数字ではない。
だけど、後世に伝わるのはきっと数字が主になるのだと思う。
関東大震災から101年、未だ首都直下型地震は来ていない。