僕のお話
僕は自分のことをあまり話したがらない.
もちろん今日こんな面白いことがあったとか,こんな物をみた,こんなことがあったという事は話すけれど,本当に思っている事,僕自身がどうしたいのかなんて事はなかなか話さない.たとえ家族であっても.
自分が見て,聞いて,読んで感じた事はたくさんあるし,それをもとに考えたこともたくさんある.だけど僕がどうしたいのか,僕自身が願う事は何なのか,これまで話した事はほとんどない.その理由をここで書いていこうと思う.
はじめは期待に応えたかっただけなんだ
気づいた時にはこうだった.周りが僕に求める事,僕に願う事.これらに対して応えたいという想いがきっと僕をこんなふうにしたのかもしれない.でも人の僕に対する期待や願いというものは言い換えればプレッシャーのようなものであり,過度に期待されることも多くあった.もちろんそれに対しても応えたいという思いがあったし,振り返ってみれば充分ではなかった事も多くあったけれど,努力はしていたんだと思う.そしてその想いは今でもある.だけど期待されてそれに応える.膨大な数の繰り返しのなかでだんだんと僕は自分の存在が希薄になっていった.そして僕は僕という人間がわからなくなっていった.
運は良い方だと思う,活かせてないとは思うけど
僕は友達と言える存在があまりいない.極めて少ないといっても過言ではないだろう.だけど,僕が友達だと思っている人には共通点があると思う.(まあ向こうが僕のことを友達だと思っているかどうかはシュレディンガーの猫状態ではあるのだが) 会社をやっている人,夢を追いかけている人,好きなことに直向きに取り組める人,趣味に没頭できる人,人間関係が広い人.
皆それぞれが僕にできていないことができているように見える人だし,尊敬の念を持って接するに値する人たちだから.そんな人たちと知り合いになれただけでも僕は非常に運がいいと思える.だけどその人たちと関わるうちに彼らに対して僕は秀でているところが何もないのではないかと思うようになった.対して頭がいいわけでもないし,決して性格が明るいわけでもない.音楽も長いことやっていたけれど,決して上手い方ではないし,やめどきを失ってだらだらと続けていたようにも感じる.こうして周囲と自分とを比較し,自分に最も過度な期待をしているのは自分自身じゃないかと今でこそ思えるけれど,そう思っている時は冷静とは言い難いので仕方がないのかなと今振り返るとそう思う.刺激はたくさんあったのに自分にとってプラスに働かせることができなかったのかもしれない.
どうしようもないんだよ,このジレンマは
自己肯定感の低さは周囲の自分に対する好意的な言葉も裏があるのではないかなんて勘ぐってしまう.言葉の裏を読もうとするのは自分は評価されるに値するほどの人物ではないのだという思い込みから来るものだと思う.たまに本当に悪意を持って近づく人はいるので警戒するに越した事はないのだが,そのわずかな悪意に怯えて悪意のない人まで傷つけてしまうことは非常に辛いものである.今でこそそれなりに他人からの好意というものに素直な反応をすることができるようになったけれど,今でも疑問に思う.あなたにとって僕という存在は果たして友人関係を築くに値する存在なのかと.そして自分に対して”お前は一体何に怯えているのか”と.
願いは口に出さないことにした
願い事は難しい.願いは一歩間違えば呪いになってしまうと思うし,何よりも結果を伴ってしまうから.叶うのか,叶わないのか.思いがけない形であったとしても結果はどちらかだ.だから慎重に選ばなければならない.そして一人がたった一つの願いしか持たなかったとしても,人の数だけ存在する.そしてそのたった一つの願いが世界をどうしようもなく歪ませてしまうように思える.叶わなかった者は叶った者のことを妬むし,叶った者は叶わなかった者のことなど気にも留めない.その連鎖がどうしようもなく悲しく思えてならない.そして僕の一方的な願いで誰かを狂わせたくないとも思う.それはエゴでしかないから.だから僕は願いがあっても口に出さないことにした.そうすれば叶ったのか,叶わなかったのか,結果を知るのは僕自身だけだから.
とまぁ長々と日頃あまり口に出すことのないことを書いたけれど,一体何が正しいのかなんて分からない.本当に生きるのって難しいよね,この先に希望があるのかって言われたら明るい未来ってそんなに思い描けない.そう思えてしまう.本当に気が滅入るけれど,文句を言えば叩かれる.まぁ僕は聞きたく無い話は聞き流すんだけど.