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プログラマーになるのを諦めた話

前回の、この記事のとおり、私はとんでもないプログラマーに出会ってプログラマでご飯を食べていくことを諦めました。

なぜプログラマになろうと思ったか

私が実際のコンピュータに出会ったのは、友人の家がやってるSONYショップにあった、SMC777Cというソニーが発売していたパソコンでした。

初めてみたときは、英語の書いてあるボタンがいっぱいついた装置をみて、触ったらこわれるんじゃないかとドキドキしたのを覚えてます。

それからは、毎日のように友人宅に通い、簡単なプログラミングとかをして感動してました。

この瞬間が、将来の職業を「プログラマー」になろうとした瞬間かとおもいます。中学二年生で将来の職業を決めていました。

そこからは、オタク街道まっしぐらで(当時はパソコン・マイコンをやるひとは、オタクというレッテルを貼られた時代)、高校はコンピュータを専門的に学びたく、親の大反対を押し切って工業高校の電気科(当時は情報処理科とかなかったので)に進学したり、親を半ば騙してPC8801mkIISRを買ってもらったり、家の会計用に買ったPC9801ESを奪って自分用にしたり、とプログラミンを学ぶというよりは、ゲームで遊ぶのはほとんどだったものの、「これってどうやってプログラミングしてるんだろう」とか考えながら遊んでいる時期でした。
当時のパソコン(マイコン)の雑誌には、BASICのプログラムコードや、16進数でのコード等が掲載されていたので、それを友達と手分けをして入力していたのも懐かしい思いでです。

日に日に、「プログラマ」でご飯を食べていこうという気持ちが固まっていったのもこの頃です。

はじめての就職

これまた親の大反対を押し切って、SIの会社へ入社しました。

親からは「お前をゲーム屋にするつもりで育てたんじゃない!」とか言われましたが^^;
親から見たら、コンピュータ=ゲーム機、だった時代です。

念願かなってプログラミングできる環境で仕事ができるようになったので、何でもやりました。
プログラミングはもちろんですが、それ以外も、JCL流す、デバッグ、データエントリーから、パソコンの修理までなんでもやりました。

周りの人に、「なんでもやってくれる人」という信頼を得て、自分のやりたかったプログラミングの仕事もだんだんともらえるようになりました。

そのもらえた仕事のなかで、自分の転機になったのが、IBMのワークステーションRS/6000の上でAIX/Motifでの開発でした。
CADのDXFファイルを解析し、CADソフトを使わずに図面を表示する仕組みを作って欲しいという仕事でした。

オブジェクト指向的な動きをするライブラリで、イベント駆動型のプログラミングはしたことがなかったので、取り組むのにすごく苦労しましたが、意味がわかってからは、ガンガンと開発をすすめ、Motifの知識は結構ついたなというレベルまで達成することができました。当時は、Motifの開発ツール等も出てきた時代でしたが、手作りでコード作ってました。

最初の転職

そんななか、帰宅途中で寄った本屋さんでたまたま立ち読みした「TechBeing(エンジニア向け転職雑誌)」に掲載されていた募集広告に目がとまりました。

「Motifエンジニア募集」

と書いてあるその内容は、自分にとってとても魅力的で、いままで以上にMotifやUNIXにこだわった仕事ができる!とおもい、本を買って帰りすぐに履歴書を書き募集先に応募しました。

当時Motifのエンジニアが少なかった時代だったので、話はトントン拍子で進み、初めての転職が成立しました。

入社してからは、しばらくMotif専門要員で、Motifを使う開発が多かったのですが、だんだんと仕事の幅が広がり、Perl、AWK等での開発も増えてきて、クラサバからWebシステムへと変わっていった時代の波を楽しんでいた頃です。

天狗になってた時代

当時私は、主にUNIX、Macintosh用のアプリケーション開発をしていました。

他の人よりも短期間で開発をすることができたので、それが噂にもなり、むちゃくちゃ難しい案件はとりあえずこいつに相談しろ、みたいな空気が社内でもあり、いろんな相談が舞い込んできました。

また、いくつかのパートナー会社さんにも部分的に開発を委託していたのですが、丸投げせずに共同開発的な立ち位置で仕事をお願いしていたので、開発の腕前はパートナー会社の上層部にも伝わり、うちに来て働かないか、みたいな話もいただくことが多かった時期です。

難しい仕事が沢山舞い込み、パートナー会社さんからも評価してもらっていたので、天狗になっていきました。
このままプログラマーでもご飯を食べて行けるんじゃないか、と真からおもっていました。

そんな仕事を楽しんでいた28歳のころに、この記事で書いたスーパープログラマーと出会いました。

絶望

仕事を充実していて、社内外からも評価され、天狗になっていた自分としては、"富士山級"の仕事ができているとおもいこんでいました。しかしそのスーパープログラマと出会って、世の中には"エベレスト級"の人がいるということ、その人と比較すると自分は"高尾山級”にも到達していないことがわかりました。
この絶望感を感じた瞬間は今でも覚えています(スーパープログラマの方が書いてくれたソースコードを見た瞬間です。今まで数多のソースコードを見てきていますが、この人が書いたコードを超えたソースコードは見たことがありません。)

この絶望感じた時に、自分はプログラマとしてご飯を食べていくことを諦めました。

好きこそものの上手なれ、の言葉を信じ、たくさんのコードを書いてきたものの、それは世の中の水準と比べると素人に毛が生えたレベルでとてもプロの仕事のレベルではなく、将来それを生業にしていくということには自信をもてなくなっていました。

どうする?

プログラマとしての道を諦めた28歳。

さて、この先どうするか?をむちゃくちゃ悩みました。2年弱悩みながら生活してました。
その2年間で、もうちょっと世の中を知ろうと中小企業診断士を目指すために試験勉強に集中したりして、目線を広めることにも意識をもっていってました。

中小企業診断士の合格発表日。当時資格学校のTACに通っていたのですが、最初の講義で「最低1000時間は勉強しないと受かりません。(20人ぐらいの教室で)このなかで受かるのは2,3人かな」と言われたので、開発の仕事も忙しかったなか700時間程度は勉強したのですが、結果は不合格。
先生に不合格の報告のためにTACに行きました

ITコンサルタントになった

先生からのアドバイスは「中小企業診断士という資格は有用な資格だけど、これは世の中で「コンサルタント」という仕事で、別に資格なんてなくてもできるんだから、そういう仕事をしている会社に入っちゃえば?」というアドバイスをもらい、そのなかで先生オススメの会社を教えてもらい、翌日はその会社に応募し、これまたトントン拍子で選考が進みその会社にはいることになりました。

中小企業診断士を目指したことが、結果的にITコンサルタントになるという道へと繋がっていました。

そして、自分の強みとして、(世の中の一般人よりは)ITに対しての知見があるので、それを活かして、企業を元気にする(問題解決する)というテーマが決まったのもこの頃です。ちょうど30歳。

何を強みにしていくか

システム開発しか経験したことがない自分だったので、何をしたら顧客の問題解決ができるのか?なんて見当すらついていないときでした。

次の会社に入るときに、「何を強みにしていくのか」ということを真剣に考えてました

そんな時に出会ったのは、雑誌「ログイン」に載っていたある記事でした。

その話はまた今度。

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