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花の都へと続く、コバルトブルーの空

今回のこちらの文章は、上記の前稿に載せずに切り離した内容を寄せ集めた文章となっています。なぜあの文章を書いたのか、書くに至ったきっかけはなんだったのか、関連して書きたい内容…等々。

そんな内容を、只々つらつらと、書いていきます。


○まず先に書いておきたい事。

戦争をモチーフとした作品というのは、どうしたって「語り合う」ことがまず難しいよね、っていう話はしておきたいんですよね。

戦争は、どんなにオブラートに包んで表現したとしても「生死」「残酷」「悲惨」といった直接的なマイナスイメージが必ず付いてくるものであり、
さらに「歴史」「思想」「分断」「対立」といった、人によってはウィークポイントだったり逆鱗だったりするポイントに触れる可能性も出たりする。

だから、前稿「絶え果つ花の都より」についての文章なんかは、自身の考えを纏めるという観点では無事に形にできて満足していましたけれども、はて、これは「広める」とか「読んでもらう」という観点で考えるとすっげぇ難しい文章になっちゃったな、とも完成した時には思いました。

せっかく書いたもんではあるけど、こりゃ間違いなく人を選ぶなと思ったので「無理して読むなよ」と冒頭で書いたのはこれが理由です。
超個人的には「絶え果つ花の都より」は全日本人の心の曲になってほしいくらいの気持ちはあるんですけれども!ね!

メンタルヘルス的な分野で考えるなら、特に「共感疲労」というものへの配慮が必要な話だなと感じた次第であります。戦争は、直接体験しなくても心が疲れる題材だからね。仕方ないね。

で、そういったマイナスイメージ・ウィークポイント・逆鱗となりえるものを「わかった上で取り入れる」というのはアーティスト側としても大変なエネルギーを要すると思うんです。
この表現は大丈夫か、不快にならないか、解釈違いによる強い反発に繋がらないか…その上で、自分の感情をしっかり乗せる事はできているか、自身は納得できる表現になっているか。
そういったバランスを考慮しなければならない。

私が敬拝しているライターのpato先生が投稿されている物のなかに上記の「コンソメスープの話」があるんですが、私はこれに通じるものを感じています。
ことさら、「戦争」というセンシティブな題材が相手だったりすれば、この話の中で言われている「引き算」は100%確実に発生するよなぁ…と改めて考えてしまう次第です。
客観性のコントロール、これがメチャクチャに大変だと思うんですよ。

故に、アーティストが「戦争」を題材とする時、自分はアーティストの「ありのままの姿」がその作品に写ると思っています。
攻撃的で暴力的なものを作るのか、尖鋭的で挑戦的なものを作るのか、一定の派閥に耳障りのよいものを半ば意図的に作るのか。
それとも、平和を目指すべきだと唱えるのか、犠牲となった方々へ祈りを捧げるのか、犠牲者の心を代弁し一石を投じるものにするのか、形は様々です。

踏み込んだ題材だからこそ、そのアーティストにとって「引き算を駆使した作品」が完成する。
つまりそこには、アーティストのバランス感覚や表現技法、そして思想の方向性までもが見えてくるものと思っています。

音楽の場合、「団体・属性を取り上げて具体的に批判する」「政策・国に具体的に反対を表明する」「戦争批判」といった要素が絡んでくると、これは「プロテストソング」といったものに該当してくるものではないかと自分は思っています。なんか1年前くらいにも確かそんなこと書いてたと思いますけれども。

もちろん発信される背景を踏まえれば「確かに気持ちはわかる」となるものもありますし、世間一般的にみて「確かにこりゃダメでしょ」となるような対象が相手であれば、攻撃的な表現もまた必要悪となるケースはあり得ます。

ただ「バランスを取った上での発信かどうか」という観点においては、受け止める側もしっかりと吟味をするべき項目であると私は思うのです。
自分の大好きなアーティストが歌った歌は全て間違いない!主義主張も全部受け入れなきゃ!!と無条件に肯定するのは、シンプルに危険だと自分は思っています。(過去に痛い目にあった事がある)

で、お前は何が言いたいのかという結論なんですが、自分は「戦争」をモチーフとした作品については、最終的には「やっぱ戦争はアカンなぁ」という気持ちにさせてくれる作品が好きです。

平和に向けてどんな気持ちを持つべきか、悲惨な目にあった犠牲者の実情を理解し何を後世に伝えるべきか、犠牲者の等身大の感情に触れて自分の心はどう動いたか、そして無常・無情を呼ぶ「戦争」という行為に自分はどう意見を持つのか。
そういったものを投げかけてくれる、問いかけてくれるような、それでいて非常にバランスがよくとれている作品を、自分は強く好んでいます。

なもんで、もう一回リンク載せますけど「HEAVEN INSIDE」は大好きな曲なわけですよ。

なもんで、繰り返しますけど『絶え果つ花の都より』も大好きな曲なわけですよ。

ということで今回のnoteも、そんな感じの内容を書いていきます。戦争題材は嫌だって人は回れ右でオナシャス!無理はすんなよ!
今回は、THE BACK HORNの『コバルトブルー』と、あさきの『空葬』『イ号零型』のお話を書いていきます。


○『コバルトブルー』の空。

皆さんはTHE BACK HORNの『コバルトブルー』という曲を知っているでしょうか。最近では2024年4月にインスタを切っ掛けに再注目されたらしく、THE BACK HORNのオフィシャルサイトなどでも異例の取り上げ方をされた曲となっています。

全然音ゲーと関係ないので、普段自分が狂ったように投稿している曲の話題としては若干方向性が違うのですが、ちゃんとここで取り上げるのは意味があるんすよ。

・あの曲と、空で繋がっている。

実は『コバルトブルー』は、奇しくも『絶え果つ花の都より』とつながりのある曲だった事を知ったことも、前回のあの文章を書きだす切っ掛けの一つとなっていたんですよね。

まず、『コバルトブルー』は特攻隊、特に「知覧特攻隊」(ちらんとっこうたい)がモチーフとなっています。その辺の背景はwikipediaなんかでも紹介されていますので、そちらも参考にしてみてください。曲単体にもwikipediaがしっかり項目として存在してるあたり、さすが20年以上のキャリアを持つ有名バンドの曲やね。

ベース担当の岡峰さんがこちらの動画で制作秘話を語ってくれています。

で、例のコバルトブルーがバズったみたいな記事を見て「コバルトブルーかぁ、マジで素晴らしい曲だよなぁ、noteで語ってみたいなぁ」なんて思ったんで改めて知覧特攻隊について調べ始めてみたんですけれども、ある程度調べていくにつれて戦慄を覚えるような事実に気づいていくんですよ。

・沖縄での陸軍による航空特攻作戦に参加していた
・1945年(昭和20年)3月26日からの特攻開始
(3月23日に沖縄への空爆が開始。同日からひめゆり学徒隊が陸軍病院へ移動を開始している)
・作戦は7月19日第11次総攻撃の終了まで続いた
(慰霊の日とされる6月23日は、沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日)

このように、『絶え果つ花の都より』の題材となっている沖縄戦に深く関与している事がわかっていったんです。

そして、さらに調べていくうちに沖縄では「慰霊の日」というものがあると知って、その流れで改めて『絶え果つ花の都より』と向き合いたいと思ったんですよね。
そして、この曲に込められている内容を紐解いて、慰霊の日に手向けたい。そう思ったのが前稿の一番最初の切っ掛けでした。

だから、『コバルトブルー』という存在がなければ、もしかしたら『絶え果つ花の都より』に対してより深い感情を抱く事もなかったのかもしれない。
そう思うと、自分の中では大きなターニングポイントを作った曲でもあるわけです。


思い起こしてみると実際に『コバルトブルー』を知ったのは、それこそもっとずっと前の高校3年~専門学校1年くらいの間だったはずなんで、20年以上の時を経て『コバルトブルー』が謎にバズったのを見て、当時の衝撃を思い出して書き物してみようかと調べものして、知覧特攻隊を知り、沖縄戦を知り、ひめゆり学徒隊を知り、『絶え果つ花の都より』に向き合う…というこの流れ、因果だなぁと感じます。

写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟

この曲が生まれる切っ掛けとなった知覧特攻平和会館は、人生でいつか一度は訪れてみたい場所です。
学生の頃の自分が聞いたらびっくりするだろうな。ワイ、学生の頃は歴史の成績は2~3くらいで、興味を持って勉強なんて全然してませんでしたから。

・吹き荒れる暴風のような感情の歌詞。

さて、そんな『コバルトブルー』は『絶え果つ花の都より』と比べると非常に対照的な曲で、当事者たちの暴風のような、狂奔の熱情がむき出しとなって表現されている曲だと感じているんですよ。

その露出された素直な感情達は、覚悟・諦め・焦燥・勇気・不安・自暴自棄・傍観・悟りなどで、それらすべての感情がるつぼとなって複雑に溶け合っているような、それこそ複数の人間の感情が曲(風)の中で一つに混ざり合っているかのようですらあると感じています。あくまで私の主観では、ですけどね。

PVではありがたいことに歌詞も確認できながら視聴できます。これはもう聴くしかない。

知覧特攻隊にはひめゆり学徒隊のように、纏わる背景・資料・人物達にも壮絶なドラマが沢山あります。「特攻の母」に纏わるストーリーなんて、それはもう色々と壮絶な話がてんこ盛りなんですよ…。

時代背景や資料を読み取って、勝手に脳内で浮かべてしまっている『コバルトブルー』のストーリーはこんな感じです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

真っ暗な闇の中に、波の音だけが聞こえる。
真っ暗な闇の中に、俺みたいな月が浮かんでいる。

あぁ、このまま時間が経てば、夜が、夜が明ける。

日が昇ればきっと、俺たちは特攻で命を落とすだろう。
俺たちの友情も、置いてきちまった愛情も、何もかも舞い上げて散らしてしまうだろう。
俺たちのことなんか、最後にはきっと忘れ去られてしまうだろう。

あぁ、畜生、畜生。なんで、こんなことになっちまったんだ。

俺たちガキだって、「こんなこと」はくだらないってわかってるのによぅ。
おかしいなんて言わせちゃくれねぇ、辞めてもいいなんて言わせちゃくれねぇ。
俺の横で寝てたやつなんて、なんだよ、俺より4つも年下じゃねぇか。
パイロットになるのが夢だった?僕もお国の為に頑張ります?
なんでそんな事言いながら、明日のために眠れるんだよ。

唇が、震える。胸が、震える。
あぁ、クソ。俺は怖ぇよ。つれぇよ。泣きたいんだよ。

だけど、だけどよぉ、俺たちは「生きた」んだよ。
こんなクソったれな気持ちになるためだけに生まれたわけじゃないんだよ。

進んでこうなったわけじゃねぇさ。これが望みだったわけじゃねぇさ。
でも、俺はここにいる。そして、みんなのためにいくんだ。
なぁ、そうだろう。おふくろ。おやじ。きょうだいたち。そして、君。

聞けばなんだ、ここにいる俺たちはみんな、みんな同じような事を考えてたみたいじゃないか。
多少言葉は違っててもよぅ、生まれた土地は違ってもよぅ、なんだかんだで俺たちは同じ方向を向いてたんだなぁ。

あの夜の酒は、うまかったなぁ。
へたっぴな歌を聴きながら、最近好きな女ができたんだとか、プロの野球選手になりてぇとか、あの食堂で食った飯が泣きそうなくらい美味かったとか、いろんな事語り合ったなぁ。
でも、どいつもこいつも「じゃあ逃げちまおうぜ」なんて、だれも言わなかったな。
誰か一人でも、めんどくせぇからトンズラしようぜって言ってくれりゃ、俺は喜んで一緒に行ったってのによ。ははっ。

あぁ、夜が、明ける。

じゃあ、いこうぜ。風になって、一つになっちまおうぜ。
笑え。笑え、笑え、笑え。笑え笑え笑え。
俺たちはここに生きた。絶対に忘れない。忘れたりするものか。
砕け散っても、風になっても、お前たちの事を忘れたりするもんかよ。

また、会おうぜ。いつか、また。

あぁ、くそっ、お前たちと一緒に、
あんなにきれいな、青い空にいけるなら、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

いつもいつも、聴くたびに平野耕太氏の絵でこんなストーリーを脳内再生しちゃってます。ベルナドットさんのイメージが自分の中ではすごく近いんだよなぁ、コバルトブルー…。

・意味の、捉え方。

THE BACK HORNの歌い方やPVも本当に見事でね…あっ、確認用にもう一回載せときます。

曲調とパフォーマンス的な部分が恐らくPVを見た人たちには「刺さった」ポイントだと思うんですよ。
PVはモノクロで、海の波打ち際で暴れまわりながら狂ったように歌い、演奏しているその様は、曲の全ての要素をつぎ込んで表現しているかのよう。
荒々しく退廃的で、それでいて確かな魅力を感じさせるPVです。

しかし、果たして、バズりによってこの曲を知った人たちが、この曲の「意味」までをも吟味しているかどうかは、果たして。

もちろん、音楽を楽しむためには「意味」を吟味しなければならないという強制は存在しないし、存在してはいけない訳です。
かつて洋楽の歌詞の内容をガン無視してグルーヴを重視して聴いていた自分のように、感じるままに楽しむことを許されているものが「音楽」だと、自分は思っています。
実際、この『コバルトブルー』だって、自分も前情報なしに聴いたときはシンプルに「かっけぇ!」と思ったところが最初だったわけだし。

しかし、この曲から「意味」を感じ取ってしまった自分は…この曲にただならぬ特別なものを抱いてしまった。感情の暴風という側面にこの曲の真価を感じてしまった。
そんな自分からすると、歌い方やPVを表層だけで評価してしまうのは「もったいない」というか「深堀をしてほしい」とか「もっと語り合いたい」とか「一緒に沼に落ちてほしい」とか、余計な事を考えてしまうのもまた事実なんです。あぁ、こういう時の自分は、自分で自分が本当にめんどくさい。

そして、そんなコバルトブルーを骨の髄まで堪能するには、「知覧特攻隊」という存在を無視するわけにはいかない。かつての「彼ら」の感情から、目を背けるわけにはいかない。
それはもう、存外に暗い側面を語る曲でもある。だから、そう、押しつけはよくないんだけど、だけど、嗚呼。嗚呼。

そんな吐露したい感情のうねりで「震える胸」。
知覧特攻隊の有様に、想いを重ねたくなる曲。
それが、自分の中の『コバルトブルー』です。

・根本にあるのは「生きる」。

生きる、生きたい、生きれたら。そんな我武者羅さを根底に感じる『コバルトブルー』だからこそ、とあるエピソードに関しては心を強く打たれてたりもするんですよ。

上記記事はコロナ禍による影響で行った、無観客配信ライブについてのレポート記事なんですけど、

「変わらなくちゃいけないとか、強くならなきゃいけないとか、そこを無理してやる必要はないと思う。最低でも無理するのは生き続けること。当たり前だけどみんなが優しさを持って寄り添い合いながら、支え合いながら生きていきましょう」

(上記記事より引用)

「また生きて会おうぜ」と観客に語りかけて、キラーチューン「コバルトブルー」で本編を締めくくった。

(上記記事より引用)

これまで幾度となく観客とシンガロングしてきたこの曲(無限の荒野)でも、山田は目の前にファンがいるかのごとく客席にマイクを差し出す。それに呼応するかのように菅波が「否、まだだ、ここでは死ねねえ!!」と咆哮。

(上記記事より引用)

このあたりの、THE BACK HORNの「生への渇望」に対するエネルギーにコバルトブルーみを感じるといいますか、ね…。
コロナ禍という観点や、ボーカルの山田氏の事情も嚙み合って、熱いものを感じずにはいられないというか、音楽っていいなって再認識させられるエピソード記事です。なんかもう目頭が熱くなる。

あ~…。

『コバルトブルー』があまりにも名曲すぎて、ここまでですでに6600文字になっちゃってました。すいません。
へへ…胸が熱くなる曲はいくら語っても語り足りないんでさぁ…これでも引き算して書いてる文章だから、ほんまスマンやで…。

あと4,000文字くらいなんで、もう少しだけお付き合いください。

○『空葬』とは何を指す?

さて、次は『空葬』のお話です。
GITADORAユーザー的にはギターパートの赤譜面がごく一部の方に強い印象として残っているかと思います。とりあえず今は一旦あの譜面は忘れましょう。

初出は「REFLEC BEAT colette」で、2013年11月27日がお披露目日となっていました。あさき氏はGITADORAに移植された時に×1億年くらい作曲日を盛っていますけど、それでもこの曲は10年以上前になるんですねぇ…。

・言葉の意味とは?

空葬(くうそう)として意味を調べると、こんなページがヒットします。どちらかというと「風葬」と呼ばれることの方が多いもののようで、戦前の沖縄では慣習として行われてきた遺体を葬る方法の一種のようです。

戦前の沖縄…というと、どことなく「絶え果つ花の都より」とも関連がみれてしまう…のは流石にこじつけですな。

またこれを空葬い(からとむらい)とすると、上記のようなものがヒットします。いずれにしても、意味深ですねぇ…。

・歌詞……(?)

蛻が空を埋めている

続いて歌詞を確認していきたいところなんですけど、実は『空葬』で公式に歌詞として書かれているのは、この上記の一行しかないんです。
んなアホな。当然、聴いたことがある人ならこの一行で終わる曲ではないことくらいは承知しているかと思います。もちろん、これは作曲者の意図というやつです。

あさき氏、けっこうそういうトコありますからね。そんなところも含めて大好きなんですけど♡

で、最初の超難解漢字「蛻」なんですけど、「もぬけ」と読むみたいです。もぬけの殻、のもぬけです。
軽く調べてみたんですが、この漢字自体はやはり漢検とかでも一級ないし準一級クラスでしかお目に掛かれないようです。んなアホな。たった一行にそんな漢字ぶち込むんじゃないよ、難しすぎるだろ。

あさき氏、けっこうそういうトコありますからね。そんなところも含めて大好きなんですけど♡(二回目)

なので、様々な個所で考察されている聞き取り歌詞も参考にしながら、自分も「こんな感じじゃないかな…」と聴き取ったものを下記に記します。

・歌詞聴き取り内容について。

(主にこちらの方の聴き取り歌詞を参考にさせて頂きました)

高く 飛んでいる ものよ
ああ 届かず 珠色(たまいろ)に
その先の行き着く 何処へ無添の
ああ 羽根無きものよ(ああ 骸なく)
空高く 伝い落ち行く 千を追いかけて
遮るもの無き海に 手を合わせて 
沈む 風渡る民に問いかけ
『蛻が空を埋めている』
高く 飛んで 誘く ものよ

(もやし親父の非公式聴き取り歌詞)

まぁ、大体はリンク記事のまんまなんですけど…ちょこっとだけ変わってます。全体的な意味としては、個人的にはこれも「特攻隊」を表現していると思っています。

球色(たまいろ)とは、そのままではよく分からない色ですが…恐らくは「珊瑚珠色」を指すのではないかと。

珊瑚の深い赤色は「血色」とも呼ばれてたそうです。

そして聴き取りをした事によって初めて気づいたんですけど、「ああ 羽根無きものよ」の後ろでなんか歌ってるんですよね…10年以上気づかなかった…。
特攻隊と準えるならば爆発で遺体もバラバラとなってしまう事から「骸なく」なのかな…とここは解釈。あぁ、そうすると「空葬い」のほうが意味が強くなるのかな…「蛻」も「無添」もそれっぽくなる気がするし…。

で、「伝い落ち行く千を追いかけて」の「セン」は多重ミーニングだと思ってます。まず、「千」は「陸軍沖縄戦特攻隊員戦死者数」の1,036名に準えているのでは?という解釈。そして「線」または「先」とするならば「後を続く」という解釈になりますし、「船」なら「標的を追いかける」とも取れます。当然「戦」という意味にもできるでしょうし。ミーニングし放題なヤバいポイントです、ここ。

で、やはり全体的な歌詞の意味としては「特攻隊への鎮魂」を意味しているものと思われます。
あさき氏のおどろおどろしい雰囲気の歌詞は相変わらず健在ではあるものの、メロディラインもろもろも含めて考えると全体的に「綺麗」なんですよね。「遮るもの無き海に 手を合わせて」という歌詞や、最後の余韻の残し方には、どことなくあさき氏の、モチーフ元に対する敬意のようなものが見え隠れする気がします。

とはいえ、全くこの曲を知らないで歌詞だけ見たとしたら、たとえ『空葬』という表題を見たとしても「特攻隊」を表現しているとはすぐには考えにくいのでは?とも思います。(そもそもこの歌詞だって全く公式ではない)

そこでキーワードとなってくるのが、『イ号零型』という曲です。

○『イ号零型』とは?

『イ号零型』という曲は、jubeat saucerが初出となっています。

和風です。何卒よろしくお願い致します。ちなみにXの投稿文の方では<ショッチョー>となっていますけどもちろん作曲はあさきです。

この和風なインスト、実は『空葬』のインストバージョンとなっていて、こちらのほうが早い出典となっています。なのでどちらかというと『空葬』のほうが『イ号零型-Try to Sing Ver.-』という位置づけになるわけです。

・モチーフ元考察①「潜水艦」

さて、『イ号零型』。こちらはインストなので歌詞から考察はできないわけですけれども、非常に特徴的なその題名と曲の雰囲気から2パターンくらいにモチーフ元を絞り込むことができるのでは?と自分は思っています。

(注:あさき氏の発想に私が追いつける気はしないので、あくまで絞り込むという言い方です。完全に見当違いなことを言ってる可能性も存分にありますので、話半分でお願いシャス!)

一つ目は「伊号第一潜水艦」をはじめとした「伊号」シリーズの潜水艦。運用時期が1940年代となっているため、特攻隊の発足時期とはある程度リンクしていると考えられます。また、「空」と「海」という対比も生まれてきますし、『イ号零型』の前半に使われている音はどことなくソナー音を彷彿とさせる音色にも感じます。

ただし、「イ号」と「伊号」で表記がブレる部分があり、和風(日本製)という着眼点は叶えていますが、『空葬』とはそれほど大きな関連性は感じられません。

・モチーフ元考察②「イ号一型誘導弾」

で、もう一つは「イ号一型甲無線誘導弾」「イ号一型乙無線誘導弾」「イ号一型丙自動追尾誘導弾」。統合してここでは「イ号一型誘導弾」という形で表記します。もしかしたら自分はこちらがモチーフ元ではないかと思ってます。

こちらは大日本帝国陸軍の試作していた誘導弾の総称で、なんでも「100%戦死することを前提とした体当たり攻撃(特攻)は、技術者の怠慢を意味する不名誉な事」であるとして開発を開始した背景があるそう。

これはつまり「特攻隊にこれ以上特攻をさせないようにしよう」という技術者としての挑戦と技術による救済がテーマになってたのではないかとも受け取れます。

しかしながら現実は、装置不調、調整困難、自国での自爆、搭載機による運用リスク等、問題を払拭しきれないまま終戦を迎えた兵器とされているようです。

このイ号が素早く完成し、実用段階に入ったとするのならば…特攻による戦死者はもう少し減らすことができたのでは…という、「if」を含ませる兵器ともいえるのかと思います。

・『イ号零型』の意味するもの。

で、考察に役立てたいもう2つの要素が「スペシャルエンブレム」と「称号
」です。これはjubeatならではの要素ともいえるもので、『イ号零型』を考察する上では欠かせないアイテムといえるでしょう。

まず、スペシャルエンブレムについてのXの公式投稿から見てみましょう。

菊の花など、様々な花が和のビジュアル要素強めに並べられているエンブレムとなっています。どことなく波?雲?をイメージさせる白い曲線も印象的です。ともすれば極楽浄土を表現したものでは?とすら感じてしまいます。

そして称号。現在はホールド譜面も存在するので称号は4つあります。

◆通常譜面
全クリア:イ号零型
全フルコン:零れオチル行く末
◆ホールド譜面
全クリア:彼のソラは蒼く
全フルコン:「アァ」とひととき瞬いて

ここで注目したいのは「零れオチル行く末」というキーワード。スペシャルエンブレムの宣伝ツイートでも使われているくらいには象徴的なワードと取っていいでしょう。

モチーフ元を「イ号一型誘導弾」であると仮定した際、ここから読み取れるのは「イ号を完成させなかったことにより、空へ葬る行いを止めることができなかった。イ号は命が零れオチル行く末を救えなかった」という解釈なのかな、と思うんです。

故に、『イ号零型』にボーカルを入れて完成形とした曲は『イ号一型』とはならず、零れオチル行く末を詠った『空葬』という名前に到った。モチーフ元のストーリーをたどれば、これは必然とすら思えてくるんですよね。

それに「零す(こぼす)」は「零(ゼロ)」をかけている表現にもなっているわけです。あさき氏はそこまで狙って『イ号零型』⇒『空葬』という流れを組んでいたのかと考えると、脳の裏側を冷たい風がよぎって全身に鳥肌がたちそうになります。

そして……零れオチル行く末は『コバルトブルー』と『絶え果つ花の都より』へと繋がっていくわけです。そこまでを考えてしまうと、「アァ」とひととき瞬いてしまいたくなります。
…アァ、「彼のソラは蒼く」という称号も、これもまた『コバルトブルー』へと繋がっていく。ソラの蒼さを願った、あのひめゆり学徒隊にも繋がっていく。

悲しき戦争に対し想いを馳せた時に見える原風景は、どのアーティストにももしかしたら同じものが見えているのかもしれませんね。

○平和へ、祈りを。

8月は、広島原爆投下、長崎原爆投下、そして終戦記念日がカレンダーに刻まれています。思えば、故人へ想いを掲げるお盆という行事も、8月。

………そういえば、「memento mori -intro-」が公開されたのもお盆だったなぁ。2013年のあさき氏の死生観に関する作曲表現は、どこか鬼がかってますね…。


そんな8月。皆さんもどうか暑い夏を彩る蒼空へ、平和に対する祈りを捧げてみませんか。

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