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『しあわせな日々』と『孤島』

何を見ても「しあわせな日々」に見えてしまう病気に罹っているのは自覚しているが、現在北千住のBUoYで上演されているARICAの『孤島』が『しあわせな日々』に見えたのは、おそらく、病気のせいではない。

かつて、孤島に家族で逃れ、そして家族も死んでしまった女。「本土」に行くには、令状が必要だが、彼女には届かない。その孤島で、彼女は1人過ごす。

およそ60分のパフォーマンスにおいて行われることは、歯磨きをしたり、豆みたいなのを食べたり、水を飲んだり、髪をとかしたり、ほとんど無為といっていい行為を積み重ねている。倉石信乃のテキストは、おそらく女自身によって録音された音声によって読まれるが、心象風景でもナレーションでもなく、微妙な関係を保っている。女の行為の背後には、常に音楽未満の音が鳴り続けている。

テキストによって女が歩んできた過去と、厳然する女の無為な身体、そして、現前しないがおそらく今に近いであろう彼女の声が、幾重にも時間と空間をつくる。そして、何者かは、彼女のことを探しているらしい。

全ての時間を身体が引き受けている、それは、あたかもウィニーの姿のように見える。ARICAが上演した「しあわせな日々」もまた、その時間が染み出していくような時間を描いていた(僕はDVDでしか見ていないのだが)。

ARICAが上演した「しあわせな日々」は、とてもゆっくりだ。
翻訳が違うということもあるが、東京デスロック、ハチス企画、そして我々の上演はいずれも100分程度だったのに対して、ARICAの「しあわせな日々」は、2時間を超える。他の上演が現在にフォーカスしていたように見えるのに対して、ARICAの上演は、最も過去にフォーカスしていたように思える。

おなじみの岸政彦『マンゴーと手榴弾』(勁草書房)だ。

「ひとつの短い語りの中に数十年にわたる時間が同時に存在しているということ、複数の過去が現在のなかに折り畳まれていることこそが、語りを歴史と構造の中に置き直して考えることを可能にする」

なお、この作品は、我々の後、TPAMにおいて上演される。「しあわせな日々」を見た後に『孤島』を見ると、また違った体験になるはずだ。


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Yuta Hagiwara
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